師匠の原稿①
『宇宙大我』超然
「貴方に捧げる天恵至福抄」
これは私が五百萬年累生の生命を供して到達した(授かった)至極の真覚大悟である。
「地上で得たものは地上に遺す」
「此の世に在ったものは萬人共有の宝」
「凡人故にこそ得られる至福成道の幸」との天声に従い本稿を供する次第であるが、特に吾が今生において希有の縁にふれ、時を共にした人々に拝脆合掌(はいきがっしょう)を添えて贈呈し、只一人でも良し、共鳴を得て超神仏(操神駆仏)の
大字宙に繋根し自在大我に輝かれる事を吾が生命の願いとするものである。
但し本稿は目で読み頭で理解しようとすれば単なる精神論であつたり、人によっては独善虚妄の戯音とも見え、解理は永遠不能故、只くり返し、ボーツと対峙して下されば自然と心眼霊視が作動致します。
又各頁中に多出する重複の文書は別の観点から捉えた真義であり意の深甚を表はします。
『大我』
絶対究極の「1=字宙」に同化した「真の吾」を自得実感するを言い
凡人で且つ挫折多い半生を持つ者程到達し易い易行門
(本来身に備はり自然に導かれて得る深奥の悟り) であり
大我に至れば、相対界に在る森羅万象の実体推移の悉くが吾が裡(うち)のものとなり、事物、神仏、人等の万有に瞬時に同化し得る。
大我は本来萬人の身に備わった宇宙意識(生命の基根)である故超常的思索や
自己原罪の否定に基づく苦行から発現する事は絶対になく
己自身と身辺のありのままをフット見据えれば、 そこに大字宙が実在するので
ある。
『経緯』
吾が四十余年の求道探真故の壮絶の行学修は結果に得たものは
俗に言う霊
能屋の世界(幽界)でオカルトの魔境に過ぎぬ外道であり
世に益する何もなしと覚ったのは二千余年の昔、釈尊がバラモンの苦行を捨て人里の自然に座して
涅槃に至った故事に導かれたものか…。
以来四度びの臨死体験や処世の修羅場こそが無上の精舎であるを知り
日常普段の暮しの中でしか真理(当り前、在りのま)を見出し顕彰する事が出来ぬと覚えたのであるが
その中で、有中の無虚中の真、に目覚めた時
ある日パッと魂が宇宙全一に共鳴輝光し万意通達と無限大自在の「我(大生命)に帰った」のが吾が覚醒の経緯である。
『超神仏』
イエスは人間の原罪を身を以て贖はんとし、釈迦は人類の四苦の解脱救済を目指して宗門を起し
他の開祖聖者も全て現世の人間苦と悪心の嫌忌排滅を唱えたのは、
「人間の目、尺度」に基づくもの故に正邪、愛憎悲喜苦楽の相対の場を脱する事が出来ず、それが神仏の霊徳の限界を露呈しているのである。
一方全一の宇宙観では
四苦原罪も人が持つ固有の自然であり、天恩地恵を併せた真理の実在なのである。
『至福検証』
大我に至れば身辺は自他一如の白光に包まれ、生死、吉凶、 成敗を悉く脱し、心
を遮る一片の雲もなく
共歓至福の境地となり、周囲の現環境の全てが自分を中心に展開されるが、その度合いが悟りの正誤深浅(せいごしんせん)の答でもある。
師匠の原稿①より♪