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高橋信次さんまとめ

髙橋信次さんの『心行』や講演音声と動画をまとめてみました♪

心と行いと書いて『心行(しんぎょう)』と読ませる小冊子は

慈悲の心と愛の行為の実践を教えてくれます♪

髙橋信次さんの『心行』

『心行』は昭和43年11月22日に完成したと『太陽系の天使たち』という講演会動画で言ってました♪

心行     高橋信次

心行は宇宙の神理

人間の心を言霊によって
表現したものである

それゆえ心行は
拝むものでも暗記するものでもなく
これを理解し行うものである

正法は実践のなかにこそ
生命が宿ることを知れ

われいま見聞し
正法に帰依することを得たり
広大なる宇宙体は
万生万物の根元にして
万生万物相互の作用により
転生輪廻の法に従う

大宇宙大自然界に意識あり
意識は大宇宙体を支配し
万生万物をして調和の姿を示さん
万生万物は広大無辺な大慈悲なり
大宇宙体は意識の当体にして
意識の中心は心なり

心は慈悲と愛の塊にして
当体・意識は不二なることを悟るべし
この大意識こそ
大宇宙大神霊・仏なるべし
神仏なるがゆえに 当体は大神体なり
この現象界における太陽系は

大宇宙体の
小さな諸器官のひとつにすぎず
地球は
小さな細胞体なることを知るべし
当体の細胞なるがゆえに
細胞に意識あり

かくのごとく 万物すべて生命にして
エネルギーの塊りなることを悟るべし
大宇宙体は大神体なるがゆえに
この現象界の地球も神体なり
神体なるがゆえに 大神殿なるべし
大神殿は 万生 魂の修行所なり

もろもろの諸霊 みなここに集まれり
諸霊の輪廻は 三生の流転
この現象界で己の魂を磨き
神意に添った仏国土ユートピア
建設せんがためなり
さらに 宇宙体万生が 神意にかなう

調和のとれた世界を建設せんがため
己の魂を修行せることを悟るべし
過去世 現世 来世の三世は
生命流転の過程にして
永久に不変なることを知るべし
過去世は 己が修行せし前世

すなわち
過ぎ去りし実在界と現象界の世界なり
現世は生命・物質不二の現象界
この世界のことなり
熱 光 環境 いっさいを含めて
エネルギーの塊りにして

われら生命意識の修行所なり
神仏より与えられし
慈悲と愛の環境なることを感謝すべし
来世は次元の異なる世界にして
現象界の肉体を去りし諸霊の世界なり
意識の調和度により 段階あり

この段階は
神仏の心と己の心の調和度による
光の量の区域なり
神仏と表裏一体の諸霊は 光明に満ち
実在の世界にあって
諸々の諸霊を善導する光の天使なり

光の天使 すなわち
如来 諸菩薩のことなり
この現象界は
神仏よりいっさいの権限を
光の天使に委ねしところなり
光の天使は慈悲と愛の塊りにして

あの世 この世の諸霊を導かん
さらに 諸天善神あり
諸々の諸霊を いっさいの魔より守り
正しき衆生を擁護せん
肉体を有する現世の天使は
諸々の衆生正法神理を説き

調和の光明へ導かん
この現象界におけるわれらは
過去世において
己が望み 両親より与えられし
肉体という船に乗り
人生行路の海原へ

己の意識・魂を磨き
神意の仏国土を造らんがため
生まれ出でたることを悟るべし
肉体の支配者は 己の意識なり
己の意識の中心は心なり
心は実在の世界に通じ

己の守護・指導霊が
常に善導せることを忘れるべからず
善導せるがために 己の心は
己自身に忠実なることを知るべし
しかるに 諸々の衆生
己の肉体に 意識・心が支配され

己が前世の約束を忘れ
自己保存 自我我欲に明け暮れて
己の心の魔に支配され 神意に反し
この現象界を過ぎ行かん
また 生老病死の苦しみを受け
己の本性も忘れ去るものなり

その原因は煩悩なり
煩悩は
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり
六根の調和は 常に中道を根本として
己の正しい心に問うことなり
己の正しい心に問うことは反省にして

反省の心は
己の魂が浄化されることを悟るべし
己自身は孤独に非ず
意識のなかに己に関連せし
守護・指導霊の存在を知るべし
守護・指導霊に感謝し さらに反省は

己の守護・指導霊の
導きを受けることを知るべし
六根あるがゆえに 己が悟れば
菩提と化すことを悟るべし
神仏の大慈悲に感謝し
万生相互の調和の心が

神意なることを悟るべし
肉体先祖に報恩供養の心を忘れず
両親に対しては 孝養を尽すべし
心身を調和し 常に健全な生活をし
平和な環境を造るべし
肉体保存のエネルギー源は

万生を含め 動物・植物・鉱物なり
このエネルギー源に感謝の心を忘れず
日々の生活のなかにおいて
己の魂を修行すべし
己の心・意識のエネルギー源は
調和のとれた日々の生活のなかに

神仏より与えられることを悟るべし
己の肉体が苦しめば 心悩乱し
わが身楽になれば 情欲に愛着す
苦楽はともに正道成就の根本に非ず
苦楽の両極を捨て 中道に入り
自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし

いっさいの諸現象に対し
正しく見 正しく思い 正しく語り
正しく仕事をなし 正しく生き
正しく道に精進し 正しく念じ
正しく定に入るべし
かくのごとき正法の生活のなかにこそ

神仏の光明を得 迷いの岸より
悟りの彼岸に到達するものなり
このときに
神仏の心と己の心が調和され
心に安らぎを生ぜん
心は光明の世界に入り

三昧の境涯に到達せん

《この諸説は 末法万年の神理なることを悟り
日々の生活の師とすべし》

 

髙橋信次さんの『心行』を朗読♪

 

 

 

髙橋信次 心行ハート

 

 

 

髙橋信次さんの講演会動画を紹介させていただきます。

現在21ファイルの動画がありますので公開させていただきました。

必要とされてる方に届きますよう願ってやみません(^^)/

 

 

髙橋信次さんの動画『不退転の心』1975年5月

 

 

髙橋信次さんの動画『思念と行為』

 

 

髙橋信次さんの動画『75年青年部研修会』

 

髙橋信次さんの動画『髙橋信次先生講演』

髙橋信次さんの動画『1974年2月関西講演会』

 

髙橋信次さんの動画『1975年神戸講演会』

髙橋信次さんの動画『1975年9月青年部集会「質疑応答」』

 

髙橋信次さんの動画『1976年沖縄講演会』

 

髙橋信次さんの動画1976年『道』

 

 

髙橋信次さんの動画『1975年関西講演会』

 

 

髙橋信次さんの動画『善我と偽我』

 

髙橋信次さんの動画『正しい思念と行為』

 

 

髙橋信次さんの動画『1975年関西本部研修「質疑応答編」』

 

髙橋信次さんの動画『人生の目的と使命』

 

 

髙橋信次さんの動画『念の仕組み』

 

髙橋信次さんの動画『心の原点』

 

 

髙橋信次さんの動画『心の本質』

 

 

髙橋信次さんの動画『心と肉体の法則』

 

 

髙橋信次さんの動画『心と肉体の法則』熊本講演

 

 

髙橋信次さんの動画『内なる心に目覚めよ』

 

髙橋信次さんの動画『1975年和歌山研修会』

 

PDFファイル
『反省の要』
http://shinjisinji.web.fc2.com/img/download/hanseinokaname.pdf

『心行の言魂』
http://shinjisinji.web.fc2.com/img/download/kotodama.pdf

大自然の波動と生命』
http://yuki0hadoutoseimei.up.seesaa.net/image/E5A4A7E887AAE784B6E381AEE6B3A2E58B95E381A8E7949FE591BDE38080E59CA7E7B8AE.pdf

 

 

 

筆者が『心行』を手にしたのは数年前のことでした。

『心行』を読み進めていくうちに…

思わず出た言葉は『これは凄い!!』でした。

読んでくださるみなさんや必要となされて方に届きますように(*'▽')

お目を通してくださり感謝してます(^^)/

 

 

祈願文解説

【 祈願文の解説 ・・・ 園頭広周先生による 】

 

 


 「昭和五八から四年間かかって「心行」の解説を終わった。近く「心行の解説」下巻を発刊するが、この下巻の中には正法誌には書かなかった部分がたくさんある。その中には高橋信次先生が当然説かるべくして説かれなかったことを書いて置いた。それは悟りについてのもっとも基礎になる心構えである。「心行」の解説につづいて書かなければならないのは「祈願文」の解説である。

 この「祈願文」は、禅定する時の祈りとして、また、人のために祈る場合、天上界よりの加護をお願いする場合に非常に大事な欠かしてならない「祈りの言葉」なのであるから、一言にしていえば、奇跡を起こす祈りの言葉であり、よくこの意味を会得することである。

 

 


【 祈願文の解説-1 】


 祈りは天と地のかけ橋


祈願文

祈りとは 神仏の心と己の心の対話である 
同時に 感謝の心が祈りでもある
神理にかなう祈りの心で 実践に移るとき
神仏の光はわが心身に燦然と輝き
安らぎと調和を与えずにはおかない。


前 文

私たちは神との約束により 天上界より両親を縁として この地上界に生まれて来ました
慈悲と愛の心を持って 調和を目的とし 人びとと互いに手を取り合って
生きて行くことを 誓い合いました
しかるに 地上界に生まれ出た私たちは 天上界での神との約束を忘れ
周囲の環境・教育・思想・習慣 そして五官に翻弄され
慈悲と愛の心を見失い 今日まで過ごして参りました
いまこうして正法にふれ 過ち多き過去をふりかえると
自己保存 足ることを知らぬ欲望の愚かさに 胸がつまる思いです
神との約束を思い出し 自分を正す反省を毎日行い
心行を心の糧として 己の使命を果たして行きます
願わくば 私たちの心に 神の光をお与え下さい
仏国土ユートピアの実現に お力をおかし下さい

 

 


【 前 文 解説 】


 いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通して発生したものなのであろうか。それは、神の意識から、神の子としてのわれわれの意識が離れた時に、親なる神を、神の子である子供が慕うという自然の感情から発したものであり、さらに人間が、あの世天上界からこの地上に生をうけた時に、あの世天上界を慕う感情として、なにかあると必ず天上界、神を慕わずにはいられない心情が、祈りとして祈らずにはいられない心となって現れたものである。

 魂の故郷である天上界では、思うこと、考えることがそのまま祈りとなって神仏と調和していて、祈ることは即行為することであり、行為することが即祈りとなっている。

 ところが、人間はこの地上界に肉体を持つと、この肉体が自分であると錯覚して、天上界で持っていた時の全なる心と、それに基づく行為を忘れてしまって自我に生きようとして五官に左右され、六根にその身、その心をまかせてしまう。すると、煩悩という迷い心が起こってきて、本当の自分自身、神より与えられた神の子の意識を埋没させてしまってどうにもならなくなってしまう。すると苦しみが生じ、いろいろ不本意なことが起こってくる。

 「苦しい時の神頼(だの)み」 自分の考えでなんとかなると思っている間は神を想い、神に祈るということはしないが、もはや自分の力ではどうにもならないとなると、思わず神を思い出し、神に祈る心になる。それは、煩悩にふりまわされてどうにもならなくなった人間が、最後は神に頼んだらよくなることを知っている心があるからである。

 「人生苦」というものを、ただ苦しみだけとしてとらえて、「苦しい、苦しい」といっている間は苦しみがつづく。そういう人が多かったから釈尊は、「あなた方は人生は苦だ、生きることは苦しいことだと考えてきたであろう」といって説き出されたのである。

 苦しみを苦しみとして、その現象だけにとらわれていると苦しみはなくならない。ではどうしたらその苦しみから解脱することが出来るのであろうか。それは、その苦しみの揚句に、神に祈りたくなるその心はどうして起こってくるのであろうかと考え始めるところから苦の解脱は始まるのである。だからして、苦しみが起こってきた時には、その苦しみを苦しみとだけ考えるのをやめて、この苦しみは肉体の煩悩に執着した結果であって、神を忘れ、本当の自分を忘れてしまっていた結果だったということに気づいて、その苦しみは、神を思い出させ、本当の自分を思い出させて下さる警告であったと感謝して、ではどうすればよかったのであったかということを反省すると、その苦しみから抜け出すことができるのである。

 「苦しみ」を「苦しみ」とだけ考えて「どうぞこの苦しみを救って下さい」と祈る他力本願の心の中には、いつも苦しみが描かれ想念されているから、自分の心の中に苦しみを描き想念している間はその苦しみはなくならない。今、現れている苦しみは、過去に自分が描き想念した心の結果なのであるから、その現実の苦しみは苦しみとして見ながら、心の中に、忘れていた神を思い出して感謝し、本当の神の子の自分の意識を取り戻さなければならないのだということに気づいて、その苦しみは、本当の自分にかえれという警告だったのであると感謝するようになると、その苦しみは自然になくなってくるのである。

 なくなるばかりではなくて、その苦しみを見ながら、心の中には感謝の思いがいっぱいであるから、その感謝の明るい心がやがて現象化して幸福がくるのである。こうなることを昔から「禍いを転じて福と為す」といってきたのである。

 「苦しい時の神頼み」というのは、煩悩にふり廻された人間が、最後に求めるものは己自身の魂の故郷であり、その故郷こそ、自分を救ってくれるもう一人の自分自身であるということを、無意識のうちに知っているとことから起こってくる無意識の行動なのである。だからして、そういう時に心を内に向けて、もう一人の自分を探し求めることをしないで、心を外に向けてあちこちにお参りなどして他力信仰をしていたのでは一向に問題の解決にならないのである。助けを求める自分と、助けを求められて救いの側に立つ自分とはともに一つであって、救いの側に立つ自分とは「心行」の解脱の中で述べたように、潜在意識を通して潜在意識層に働きかけてくれる守護霊・指導霊である。

 本当にその人が反省をして「どうぞ助けて下さい」と真剣に祈ると、潜在意識層に働いている守護・指導霊が心の内から囁(ささや)いて、どうすれば救われるかを教えてくれる。余りにも問題が大きく複雑していて守護・指導霊に力がない場合は、守護・指導霊の求めによって、より高い次元の天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれることになっている。

 このように〝祈り〟というものは、自分自身の魂のふるさとを思い起こす想念であり、同時に〝反省〟という、自分自身を改めて見直す立場に立った〝祈り〟でないと、唯泣きつくばかりでの祈りでは意味がないし、本当の救いにはならないのである。

 苦しいから助けてほしいというだけでは愛の救いの手は差しのべられない。なぜかというと、今の自分の運命というものは自分自身でつくり出したもので、そうなったのは誰の責任でもない、自分自身の責任だからであって、自分自身がつくり出した責任であるのに、自分はなんにもしないで、誰か外の人が救ってくれるということになったら、その人は悪いことをするばかりで一向に魂は向上しないことになる。

 人間は神の子であり、神の子たるに反した行動をした場合は、その分量だけ償うことが神の子としての摂理であって、反省し懺悔して祈る時に、初めて神仏は慈悲と愛を与えてくれるのである。

 人間はこの世に肉体を持つと誤ちは避けられない。その犯した誤ちを修正して救う手段として与えられてあるのが、反省と祈りであり、祈りというものは、このようにして肉体を持った人間が本当の自分自身を知り、本当の自分自身を知ったところから神仏を思い起こす想念として神仏が発生せしめられたのであることを忘れてはならない。

 祈りは単に祈ることだけではいけないので、祈りはその祈ったことを行為に示さないと本当の祈りとはならないのである。

 唯、口先で祈るだけでは愚痴の繰り返しになり、失敗した自分自身をその都度思い起こし強く印象することになって、神の子としての新しい自分自身を発見し創造することにならないからである。だからして、祈りには、神の子としての自分を自覚したその心と、神に感謝し、すべてのものに対する感謝の気持ちが祈りにならなければいけないのである。

 多くの人は現在与えられてある自分の環境、境遇というものに不満を持ち、こういう環境、境遇に生まれてこなければよかったと思っている。潜在的にそういう不満を持っているから失敗もし、不幸にもなるのであるから、現在与えられてある環境、境遇というものに、神が与えて下さった、自分自身の魂の最良の修行の場であり、ここを通らずしては魂の向上は絶対にできないのであるという自覚と感謝の心が神に向けられた時に、心の底からの真剣な祈りとなってほとばしり出るのである。

 われわれは、神の加護と、多くの人々の協力なくしては一時(いっとき)も生きて行けない。自分の運命を天命として、その使命を果たして行くためには、人間はどうしても祈らずにはいられないのが人間である。この祈りの本質というものは変わらないが、このように考えてくると、祈りにも段階があり、各人の心のあり方、調和度、現在与えられてある環境・境遇によって、祈りの内容は一人一人違うことになる。

 要するに、祈りの本質とは、祈りは天と地と、神と人間、神と自分とをつなぐ光のかけ橋であり、神との対話であるということである。

 人は祈った時に、神に心を通ずることができるのである。もっとも実際には、その人が神に向かって祈る時、その祈る心を「よし」と見た守護・指導霊、或いは光の天使達が、その人の問題に対して解決の示唆を与えてくれるのであるが、だから、祈ったことに対する答えは〝直観〟となってその人の心の中から浮かび上がってくるのである。或いは時として〝天からの声〟として耳に聞こえてくる場合もある。

 この天と地と、神と人間とのかけ橋である祈りは、各人の心の調和度により、問題の大小により、大きくもなり、小さくもなりするものなのである。

 大きな使命を自覚している者はそれだけ祈ることも大きくなり、また、大きなことの実現には時間もかかることになり、自分のことだけで満足している者はそれだけ祈ることも小さくなり、小さいことの現実にはそう大して時間もかからないということになる。 

 

 


【 祈願文の解説-2 】


 前 文「親の恩」

 「私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました」

 なぜ、前文の一番最初にこの私達が、この地上に生まれて来たのは両親からであるということが書かれてあるのであるか。

 信仰の原点も、道徳の原点も、教育の原点も、すべて私たちが今ここに存在しているのは親があってこそであり、その親と自分との関係を明らかにすることなしには、信仰も道徳も教育も存在し得ないからであります。
 親不孝というほどではなくても、親に対する感謝もしないで、「信仰、信仰」と走り廻っていたのでは本当の信仰になりません。同じように、まず親に対する感謝の教育をしない教育では本当の教育になりません。即ち「恩」を知るということが人間の道徳の根本ですから、「恩を知らざる人より悪い人はいない」と西洋でもいっていますが、

 釈尊は、
 「世間、出世間の恩に四種あり」と言っていられます。世間とは在家の人々のこと、出世間とは在家を捨てて僧となった人々のことで、結局すべての人間は四つの恩があるといっていられます。

 一、父母の恩
 二、衆生の恩
 三、国の恩
 四、三宝(仏、法、僧)の恩

 この四恩は一切衆生の平等に荷なうところである。といっていられるように、「父母の恩」「親への恩」が一番最初に出てきているのであります。

 高橋信次先生は、次のように言っていられました。

「私たちはあの世で誰と夫婦になり、誰と親子になるかを決めます。『あなたは、私のお父さんになって下さい。あなたは、私のお母さんになって下さい。そうして、あなたをお父さんとし、あなたをお母さんとすることなしには勉強できない魂の勉強をさせて下さい』と約束をするのです」

 どういう親から生まれて来ようと、それはみな自分がお願いして選んで来た父母であるというのです。

 よく「親らしいこともしていないで、なぜ親に感謝できるか」という人があります。親の顔も知らないという人たちもあります。世の中はさまざまです。

 私が生まれた頃、親は貧乏でした。四、五才頃だったと思いますが、今でもそうですが、鹿児島は毎年台風が来ていました。六畳二間に少し土間があるその長屋はトタン屋根でした。風でトタンがめくれて家中、雨が降り込んで来て「起きろ」と起こされても眠くて「むしろ」にくるまって寝たことを記憶しています。小学校に行くようになって、友達が買ってもらっているようなものも買ってもらえませんでした。金持ちの家の子供を見ると羨ましく思い、もっと金持ちの親のところに生まれればよかったと、ちょっぴり親を怨むというほどのことはありませんでしたが、親に不足をおもったこともありました。

 私の青年時代はずっと戦争でした。私も戦地へ行って病気になり、約一ヶ月半位寝ている間にすべて生まれて来た時からのことを反省し、心から父母に感謝しました。すべての恩に感謝しました。そうして、もういつ死んでも心残りはないという心境になった時、私は「宇宙即我」の境地に入ることが出来たのでした。

 ロスアンゼルスアガシャ協会のウイリアム・アイゼン氏から「アガシャの説法」が送られて来て高梨さんに翻訳してもらった文章の中から必要な部分だけを書くことにします。


地球に戻る魂
 さて、この世には何千万もの女性がおり、魂を出現させる運命を持っています。同様に、この世に子供を出生させる運命を持たない女性も何百万もいます。そういう女性たちは、子供を出生させることに関しては、過去世において、もうすでに使命を果たしたからです。前世では大いに奉仕したので、自身のチャンネルを通して現世に魂を出現させる必要性を持たないのです。

 (これは前世で子供をたくさん産んで、子供の世話に一生懸命で自分の魂の勉強をする暇がなかった。それで今度は、子供を持たずに、一人の人間としてじっくり魂の勉強をしようということで、子供を持たないことに決めて生まれてくるのです。だから、子供を持たない人は、子育てに使わなければならないエネルギーはいらないのですから、その分を自分自身の魂の成長と、人のために使わなければならないのです)

 生とは最も興味のある学問の一つであり、かつ科学の眼で見ると最も神秘的なものに映ります。

 その魂がオーラーの波動、つまり親の醸し出す雰囲気の中で、アニム(電的原子)を支配し、それ自身の王国に造り変えてしまいます。その魂はその波動やその他さまざまな想念を支配し、その波動や想念は、その魂が実際に出生する時には、いわゆる、魂に備わったものになるのです。

 (もともと、人間本来は神の子の意識です。この地上界は、神の子の自己実現の場としてつくられたのであり、その自己実現のためには完全な自由が与えられてあります。
 だから人間は、善いことをするのも、悪いことをするのも自由です。何をするのも自由ですが、その自己実現の法則として正法(仏法)即ち、原因・結果の法、動・反動の法、作用・反作用の法、輪廻転生の法、慣性(業・カルマ・心の傾向性)の法等が、神によってつくられているのであり、神の子である人間はその自由意志を持って、いかに 法則(正法)を駆使して自己実現をしてゆくか。
 その自己実現の途上において、自分が原因をつくったままで、その結果がまだ現れていなかったものについては、この次に生まれた時にその結果を受けなければならないということになって、その人の反省と、反省の結果の想念が、いわゆる業(カルマ)となって、本来の神の子の自分の意識に付着して生まれて来るということになります。
 そのために人間は、生まれて来ると、まず業を修正してから、神の子の自己実現に取り組むということになったのであります。)

 地上界に魂が生まれて来るのは、みなさんが肉体を持つはるか以前に確立された、神の法によって自動的に営まれます。それは神の法なのであって「なぜ」ということはないのです。それは神の法なので自動的なのです。

 (ほとんどすべての人は、神が定められた周期の波動に乗って自動的に出生して来ます。その神の波動が起こってくると、喜んでその波動に乗って生まれて来る人と、生まれたくないと思ってあの世に執着していて、ひとたびその波動が起こると、どうしても生まれて行かなければならないのにしがみついている人があり、その波動はむりやりにその執着をはがして生まれさせます。その時にその魂は、全くの盲目の状態となって地上に肉体を持つことになります。

 そういう人達は、魂が盲目の状態になっているから、「あの世はない」「霊はない」「神はない」と平気で言うようになるのであります。

 同じ年、同じ時期に生まれて来る人達は神によって起こされた波動の同期生なのです。同期生だから同じ年に生まれた人たちは、どこか似たような共通点があるので、年廻りによる運勢というようなものを人々が考え、その年廻りによる守り本尊というようなものを考えたのです。それはまた実際に、同じ年、時期に生まれた人々の魂を指導する使命を持った指導霊が必ずあります。そういうことが「仏に値(あ)い奉(たてまつ)ること難(かた)し」即ち、お釈迦さまの世に生まれさせていただくということは全く有り得ない難しいことだといわれる所以であります。

 考えてみて下さい。もし私たちが、百年前に生まれても、百年後に生まれても、高橋信次先生の法は聞くことは出来なかったのです。高橋信次先生と、またお釈迦様と、同じ時代に生まれ会わせることが出来たということは、それだけ私たちの魂の縁があったわけです。

 如来の境地になりますと、出生の自動的な波動に乗らないで、自由に自分の生まれる時期を選ぶことが出来ます。そういう境地になることを「涅槃」といいます。だから涅槃の境地になると、この世に生まれて来ないことも出来るのです。そのために、インドの時、釈尊は涅槃に入られたということで、釈尊は再びこの世に生まれて来られることはないと言われるようになったのですが、釈尊は五箇の五百歳即ち二千五百年後に東の国に生まれるということを予言され、そうして高橋信次先生として出生されたのであります)

 しかも、道を歩む一個人として、われわれはそうした出現を観察し、その輪廻界のすぐ近くまで飛んで行って、そこでは魂が親に引き寄せられて行く様子を観察できるのです。

 

 


【 祈願文の解説-3 】


アガシャの説法 ・・・ 親子の因縁について

 因果関係

 時には親となるべき人は生まれて来る魂を拒(こば)むこともあります。なぜでしょうか。不調和な因果関係のために、潜在意識が無意識のうちに道をふさいでいるのかもしれません。

 (本当は親子となるべきであったのに、その親となる人がこの世に生まれてからの環境、教育、思想等に災いされて子供を生むことを拒否することがある。)

 輪廻のことを知り、地上界に戻りたがっている魂がおります。その魂が気づかぬうちにカルマの波動が働き、その魂が肉体に引きつけられてゆきます。魂が肉体に、この地上に戻ろうとする時、過去世に関しては表面意識では記憶を失っています。しかし本当の自分自身の魂はすべてを知っているのです。
「火花のごとき神の生命」(アガシャは人間の魂のことをこう呼んでいる)は、この地上界に輪廻転生してくる生命、魂は、それが神の偉大なる生命の一部であり、何回輪廻転生をしてもすべて同一生命、魂であることを知っている。われわれは、われわれ自身の生命を地上界に誕生させることによって地上界に奉仕しているのです。われわれの本当の生命、魂はどのようにして地上界に出現するかもすべて知っている神なのです。どの親であろうともすべては過去世に縁のあった、過去世にも親であった方々なのです。
 幽界、あの世の低い段階には、再び肉体に宿ることを認識してない生命がたくさんあります。地上界で認識したことがすべてであると思って、あの世での学習を全く受けつけようとしない生命がおります。しかし、地上界を去ってから四十年、五十年すると、突然魂がひらめくのです。目覚めがあるのです。幽界で目覚めた瞬間、自動的に扉が開くのです。それからすぐに一人になりたいと思います。他にわずらわされたくなくなります。
 いわば孤立した状態にいる時に、自らの魂に啓示が与えられそれに耳を傾けることになります。

 (地上界に生きている時に、人と群れて騒いでばかりいた人は、あの世に帰ってから一人で静かに考える、反省するという習慣を全く持っていないから苦しむのである。一人で考えることの大事なことに気づくのは四十年、五十年とかかるというのである。日本の古神道、そして仏教の習慣の中に、五十年祭または五十年忌を終るわと、取り立ててその人のために供養しなくてもよいといわれてきたことはアガシャの説法と不思議に一致している)

 そこで指導霊がやって来ます。指導霊はより高い次元の世界から霊人としてその前に出現します。指導霊はより高い次元の世界のことを徐々に、いろいろと教え、知らせ、そして話をします。「無量の意識」のより高度な、より精妙な事柄については、それまで記憶を失っていたのではじめは奇妙に映ります。
 しかし、それ以後は度々指導霊の訪問を受け、その指導霊は生命の明白な神秘面を確実に説明します。たとえそれまでは記憶を失っていても、もう基本的な知るべきことは知りました。でも今、この事実を意識するようになり、正しく適切な時を経て「無量の意識」(神の生命)から降臨した指導霊からそのことを教えられ、指導霊は肉体に宿ることについての情報を知らせ、地上界への転生の準備をさせます。より高い神の世界から来た指導霊はあの世の記録を調べ、その内容を知り、つぎに地上へ転生して行く霊に告げます。
 「幽界のこういう場所にある人がいます。そこへあなたを連れて行きます。そこでその女性に会えます。今から二百年位するとその女性は地上界で生活しています。その方はあなたのお母さんになって下さる方です。」
 このことが指導霊によってあらかじめ二百年前に告げられます。このようなプログラムを遂行できるためには指導霊はどれだけ進歩していなければならないかおわかりでしょう。
 親となり子となるべく定められた二人は、指導霊の導きと働きによってさまざまな惑星を訪れたりして多くの経験を積むでしょう。その女性は自分がやがて輪廻について知ることになり、ある友の親となることを見、未来の息子となり娘となってくれる友と何度となく話し合いをします。二百年の間、指導霊はしばしば二人を訪れ、二人はそれぞれ進歩します。
 さて、いよいよその女性、未来の母親は生まれ変わる時が来ました。瞑想状態になります。

 (瞑想は地上界だけでなく、あの世でも大事であることを知るべきです。)

 女性の表面意識は突然記憶を失い、魂は転生して最終的に地上界へ生まれるという過程を通ってゆきます。
 興味深いことは、その女性の子供となるべき魂は、指導霊の導きによってその母親となるべき魂が地上界へ生まれ出てゆく状態を見ることを許されます。地上界へ生まれ出た魂が子供から成人へと成長します。地上界で子供となるべき魂は、母となるべき女性の行動をずっと見守り続けます。
 そろそろ子供となる魂を受け入れる準備ができます。親となるべき魂のオーラーの波動が働く瞬間を待ちます。魂となっている「火花のごとき神の生命」は親のオーラーの力の波動、力で顕現します。
 その子供は二百年の間、あの世でその女性を知り、いろいろな経験を積んできます。
 幸いなる神の子たちよ。結果はこうです。子供が生まれ成長し、三才になり、五才になり、親近感がますます強くなって子供は親に、親は子供にひきつけられてゆきます。その子供が大きくなり、偉大なる芸術家、偉大なる音楽家に、それとも何かの偉人になるとします。そうなるのも、それは二つの魂がこの地上界に生まれ変わる以前に母子があの世で学習していたことなのです。
 地上界の神の子たちよ。こうした因縁のきずながあるのです。

 このようにして親子の因縁は大体二百年前に決まるのであり、二百年にわたるあの世での心の交流があって、そうして親のオーラーの波動に乗って子供となる魂が妊娠して、それから十月十日の妊娠の間の経験によって生まれて来るのであるから、親が子供に、子供が親にひかれる情愛は実に実に深いものがあるのです。それが神が定められた法則、神の意志なのであるから、そのことに反する心を持ち、行為するときに、動・反動、作用・反作用の法則によってその結果はうけなければならなくなるというのもまた当然だということになるのであります。


 以上のごとくでありますから、祈願文の前文の始まりに
 「私たちは神との約束により 天上界より両親を縁として この地上界に生まれてきました」
  と書かれてあるのであります。

 このことが神の思し召しであり、私たちの魂はそのことをよく知っておりますから、親子の情愛の深さ濃(じょう)やかさの話を聞くと「それが本当だ」と深く感じて涙が溢れるのであり、親と子が争う話を聞くと「そんなことってあってよいのか」と思うのであります。

 ですから先月号に、「親の恩に感謝する」ということが人間の道徳、信仰の原点であると書いたのであります。

 高橋信次先生は、「親子の縁は天上界で決まるのであります」とさらりと言われましたが、高橋信次先生が説かれたことの真実性はアガシャの言葉によって裏付けされている面が大きいのであります。

 さて、人間の運命についてぜひ知っておかなければならないことがあります。人生には絶対に変更することは許されない、もし変更しようとすれば必ず不幸になる基底部分というのがあります。

一、どういう親から生まれたか。
二、男であるか、女であるか。
三、どういう人相で生まれたか。

いわゆる自分が生まれてきた条件です。

 例えば、よく「こんな親のところに生まれなければよかった。もっとよい家に生まれればよかったのに」とか、「女に生まれて損した、男に生まれればよかった」とか、「もっと美人に生まれればよかった」とか、こういうことをいくら考えても絶対に変えることはできません。絶対に変えることはできないことであるのになんとか変えられはしないかというような気持ちを持つと、その人は必ず不幸になります。その絶対に変えることのできない部分を「運命の基底部分」といいます。

 いくら「こんな親のところに生まれて来なければよかった」と思ってみても、また新しく生まれ変わって出てくるというわけにゆきません。また、男が女になることも、女が男になることもできないし、今のような人相も、思って見たからといって細い目をぱっちりとできるわけでもないし、高くすることもできません。考えても絶対に変えることはできないのに、それを何とかできるように思って心をイライラさせると、それだけその人は不幸になるのですから、ムダな心のエネルギーは使わないことです。ムダな心のエネルギーを使うかわりに、思ったら思っただけ幸福になる方向に心のエネルギーを使う方が賢いのです。

 ですから運命を幸福にしようと思うならば、思っても変えることのできない基底部分はそのまま素直に受けて感謝して、思ったら思っただけ変えられる部分(可変部分)に心のエネルギーを集中することです。

 親を変えることはできませんが、心の持ち方によって環境は変えることができます。男が女に、女が男になることはできませんが、男は男として、女は女として幸せに生きる道があります。顔の道具立ては変えることはできませんが、顔全体、身体全体から発散する雰囲気は変えることができます。

 今まで子供を持つことができなかった人は、過去世で子供のことでこりごりして、もう子供はいらないと思ったからですが、しかし子供のいない生活というものはどこかにわびしさがあり、年を取るにつけて、やはり子供がいた方がよかったなあと思うようになるものであります。

 この世で子供のうちに死んで行く霊があります。子供は子供のままの姿であの世にゆきます。するとあの世でその子供を育てる役目の人がいます。その子育ては、今生で子供を持たなかった人が、この次に生まれ変わってきた時に、今度は立派に子育てができて失敗しないように、あの世で早く天上界へ帰って来た子供たちを育てる勉強をすることになっているのです。それですから、子供に恵まれなかったという人は、あの世へ帰ってからまごつかないように、この世にいる間に子供たちに愛情を注ぐ訓練をしておいた方がよいということになります。

 (これまでの日本の宗教界で、親子の因縁が詳しく説かれたのは正法協会だけであります。戦前に親孝行の道徳は説かれましたが、このように親子の因縁が教えられることは全くありませんでした。戦後は親孝行は封建的な道徳だといってアメリカの占領政策によって否定されました。そういう間違ったことをやるからアメリカは没落するということになるのです)

 

 

 


【 祈願文の解説-4 】


 信仰をする者が最初に忘れてはならないことは、一体どうして人間は祈りたくなるのか、ということです。それは人間が天上界からこの地上に生まれて来た時に、魂のふる里である天上界を恋い慕う自然の感情として発生したものであります。

 その証拠は、皆さんがすぐ実験してみられるとよいのであります。

 合掌して、「神さま、ありがとうございます」と言ってみて下さい。そう言った時、あなたの心はきっと何とも言えず安らかになるはずです。その反対に、手を合掌しないで後ろ手に組んで、「神さまなんかあるか、馬鹿野郎」とでも言ってみて下さい。どんな心になるでしょうか。

 そのように〝祈り〟というものは、自分自身の魂のふる里を恋い慕い思い出す自然の感情であり、同時に〝反省〟という、自分をあらためて見直すという立場に立った〝祈り〟でないと、救いにはならないということであります。「苦しいときの神頼み」というように、反省もしないで、ただ苦しいから助けて欲しいというだけでは、救いの愛の手は差し伸べられないのであります。

 自分の運命は自分でつくるのでありますから、自分自身でつくり出した不始末を自分で反省し、修正しないで、「神さま、助けて下さい」というのでは余りにも無責任だと思いませんか。反省も修正もしないで祈ったらそれで救われるというのでは、神は悪い者の味方をされて、この世は悪い者が増える。悪いことも勝手次第ということになるではありませんか。それが神のみ心ではないはずです。

 人間は神の子であり、神の子に反した行為はその分量だけ償うということが神の子に与えられた摂理です。反省し、懺悔して祈る時に、神仏は慈悲と愛を与えてくれるのです。

 〝祈り〟というものは、このようにして、肉体を持った人間が神仏を思い起こす自然の感情として発生したものであります。

 〝祈り〟は同時に行為とならなければいけません。口先で祈ってばかりいて行為とならないのでは祈りは聞かれません。行為は完全でなくても、真心をもって行為しようというその真心があると、その祈りは聞かれることになります。神はその行為だけではなく、その真心を見られるのであり、同じような行為をしていても、その人に真心がなく、やれと言われるからやるとか、人が見ているから仕方がないからとか、そういう心でやる行為で祈ってもそれは聞かれることにはならないのであります。

 そうであるがゆえに、祈る心の中にはまた、自分は神の子であるという自覚と、神の子人間として生かしていただいているという感謝の心がないと、本当の〝祈り〟とはいわれないのであります。

 現在与えられてある環境、境遇というものは、神から与えられた自分自身の最高最良の魂の修行の場であり、ここを通らずしては魂の向上は有り得ないのですから、現在与えられてある環境、境遇を最高最良の場としてそれに感謝する心を天に向けた時、その心は祈りとなってほとばしるのです。

 人間は一人では生きられません。神仏の加護、大自然の恩恵、動・植物のお蔭、人々の協力という相互関係なくしては片時といえども生きて行けないのであり、現在与えられてある環境、境遇を天命として、その中で使命を果たして魂を磨いてゆくためには、自然に人間は祈らずにはいられないものなのです。

 〝祈り〟の本質というものは変わりませんが、祈りには、その時のその人の心境により、また、環境、境遇の変化によっていろいろな相違があり、段階がありますが、〝祈り〟とは、天と地をつなぐ光のかけ橋であり、即ち神仏との対話であり、人は祈った時に神仏と心が通ずるということになります。

 人間は祈っても祈らなくても神仏に生かされているのでありますが、日常生活では心が外に向いている場合が多いですが、行為そのものが祈りであるといっても、やはり心を静かに内に向けて祈る時にあらためて神仏に対面することになるのであります。

 こういうことがよくわかって祈願文の最初のつぎの言葉を読むと、〝祈り〟というものがよくわかってくるのであります。 


 祈り
 祈りとは、神仏の心と己の心の対話である。同時に、感謝の心が祈りでもある。神理に適う祈り心で実践に移るとき、神仏の光は我が心身に燦然とかがやき、安らぎと調和を与えずにはおかない。

 祈り - 対話 - 感謝 - 実践 - 光 - 安らぎ - 調和

 このように言葉を並べてみると、仏教は「安心立命」(心を安らかにして、生きることに喜びを見出す)を説くものであるということの意義がよくわかってくることになります。

 熱心に信仰しているといっても、心の中はいつも不安で、生きていることに少しも喜びが湧かないという信仰は間違っているのであります。

 「私たちは神との約束により天上界より両親を縁としてこの地上界に生まれて来ました」

 このことについてはすでにくわしく述べました。この地上界への誕生は両親を縁としているのであり、天上界で親子の縁を約束するのは神の計画による並々ならぬ因縁によることであり、のっぴきならない、しかも最高、最善の魂の環境を選んでその親の下に生まれたのに、その両親に反抗し、不平を言い、親不孝をするということは、その最高、最善の魂の修行のチャンスを呪っているということになりますから、それは同時に自分の運命を呪っていることになりますから、親不孝をしている人の運命は絶対によくならないのであります。親に感謝し親孝行している人は、自分の運命に感謝し祝福していることになりますから、親孝行している人は必ず幸福になるのであります。

 親に対する感謝というものは人倫の第一の鉄則であるのに、アメリカは占領政策によって親孝行の道徳を禁止し破棄したために、そうしてまた日本の共産革命を企図している日教組の教師達は一斉に「親には感謝しなくてもよい」という教育を始めたために、本気で親を殺すような子供が出てきたのであります。週刊新潮七月八日号には、「親孝行の教育をしようとする教師は教員室で村八分にされる」という記事が載っておりました。

 一日も早く学校から「親不孝の教育」がなくなって、一斉に「親孝行教育」をするようにしなくてはいけません。しかし、そういうことを待っていたのではいつのことになるかわかりませんから、各家庭で親がそのような教育をする必要があります。

 「慈悲と愛の心を持って調和を目的とし、人びとと互いに手を取り合って生きていくことを誓い合いました」

「人生の目的」とはこのことであります。この地上界を調和させることが目的であります。

 その人の思想行為が、すべての人、すべての物との調和を目的としているか、いないか。それが神の心を生きているか、どうかの基準でありますから、調和を目的とした行為は必ず幸福になるが、不調和な行為にはそれに等しい不幸が訪れるということになるのであります。

 「しかるに 地上界に生まれ出た私たちは 天上界での神との約束を忘れ 周囲の環境 教育 思想 習慣
そして五官に翻弄され 慈悲と愛の心を見失い 今日まで過ごして参りました」

 これまでは社会全体が、無神論唯物論であり、資本主義も共産主義も物を中心とした思想であって、すべては金と物中心で、人生の目的といえば、地位欲、名誉欲、権力欲、金銭欲等、個人についていえば食欲と性欲を満足させることだと教えられて来ましたから、多くの人々はそういう心になり、正しい心のあり方を説かなければならない宗教界までが資本主義思想に支配されて、「金をたくさん献金すると救われる」と説いている。

 心が乱れ、正しい心の基準がわからなくなったから世の中は乱れて末法となり、忌まわしい事件が頻発し、戦争もなくならないのである。

 「いまこうして正法にふれ 過ち多き過去をふりかえると 自己保存 足ることを知らぬ欲望の愚かさに
  胸がつまる思いです」

正法-即ち仏法とは大自然の法則であり、仏陀といわれた釈尊が説かれたから「仏法」というのである。


今まで正法誌で、また「心行の解説」の中で詳しく説いてきたことであるが、改めてまた、ここに書くことにする。


正法-仏法-大自然の法則

一、原因と結果の法則
  これを「因縁」とも「因果」ともいう

二、動・反動の法則、作用・反作用の法則
  した通りにされる、与えれば与えられ、奪えば奪われる。
  愛を与えれば愛が、憎しみを持てば憎しみが返ってくる。

三、循環の法則
  天体の運行、分子、原子の運動、四季の循環、人の輪廻転生、
  ありとあらゆるものはみな「円運動」をする。

四、慣性の法則、業の法則
  心にも物にも慣性がある。物の場合は慣性というが、心の場合は性格の傾向性とか習慣という。
  または「クセ」と言う。
  宗教的には過去世からの「クセ」を「業(カルマ) 」という。
  人には生まれつきのクセというものがある。それは過去世からのものであるが、
  そのクセを直さないと運命は変わらないのである。

五、類は類で集る
  明るい心を持てば明るい運命が、暗い心を持てば暗い運命がやってくる。
  「笑う門には福来たる」
  「泣きっ面に蜂」


 正法即ち仏法を生きるとは、人間神の子の自覚を持って、どのようにこの法則を駆使して人生の目的を達するかというその生き方の基準ということである。

 キリストが「一点一画も廃る(すた)ことなし」といわれたように、現在の自分というものは、過去の心のあり方と行為の総決算に外ならない。たとえ現在自分が不幸であるといってもそれは自分がつくったのであるから、誰をも怨むことは出来ないのである。

 自分を自分で不幸にする最大原因が「自己保存」である。自己中心的、自分本位の心と行動であるから、自己保存の心を持つ人は、人の立場は考えない。一番恐ろしいことは、現に大自然即ち神の恩恵の中に生かされているのに、自分が生きている、と思うことである。誰の世話にもなっていない、と思うことである。この心ほど忘恩の心はない。自分一人で生まれてきたように思って、親から生んでいただいたということは思わないのである。

 狂信・盲信がなぜいけないかというと、狂信、盲信する人たちはすべて自己中心的で、自分さえよければよいと考えて
 一、それは本当の神であるか
 二、信ずる値打ち、資格があるのか
 三、そういうものを信じたらどういうことになるのか
そういうことは全く考えない。即ち知性、理性を全く働かせないのである。

 正法を知って過去の失敗をふり返ってみると、その原因は「自己保存」であり、足ることを知らない金銭欲、物欲、所有欲、地位欲、名誉欲、権力欲等である。

 着れるものであれば何でもいいのに、多くの人が着ているものは着たくない、自分一人だけの服を着たいというのは、自分一人がみなと違っているという自分を認められたいという欲望と、自分しか持たないという所有欲の合作である。多くの女性は、メーカーが勝手につくり出した流行の宣伝に踊らされて、自分では個性的で時代の最先端を行っていると思っているが、しかし見渡してみると周囲はみんな同じ色、同じ型のものばかりということで少しも個性的ではない。

 足ることを知ると、心が大事だということがわかるから流行は追わなくなる。いかにお化粧をしても心の汚れを塗りつぶすことはできない。正法を知って実践すると心がきれいになるから素顔の美が輝いている。それだけ化粧品代もいらなくなる。流行を追って服を買う必要もなくなる。
 このように考えてゆくと正法を知ることは経済的にも得の道なのである。

 

 


【 祈願文の解説-5 】

 


「私たちは神との約束により 天上界より両親を縁として この地上界に生まれてきました」

 これまで説明してきましたように、親子になるということは実に深い深い因縁のあることで、人間がこの地上で、天上界で決めた親子の因縁を実現するかどうかは、子供がオギャーと生まれてきた時のその母親の想念の如何にあります。もっと厳密に言うとその子供を受胎した時の想念です。生まれて来る子供は必ず縁があるのです。「この子は生みたくない」「厄介な時に妊娠した」等とそう思うことは、親も子も生まれてくる前の縁を破棄することになり、親子どちらも運命を狂わせて苦難の道を歩むことになりますから、縁というものは大事にしなければいけません。

 

 祈 り
 なぜ人間は祈りたくなるのか。

 「苦しい時の神頼み」といいます。自分の考えでやっていることが順調にいっている間は神ということを思い出せない人でも、さて、すべて行きづまった、ということになると思わず「神さま!」と叫びたくなる心はどうして起こってくるのでしょうか。それは、人間が、あの世、天上界(実在界)からこの地上界に生を受けたという事実から始まります。

 魂のふる里である天上界で、われわれは神があるということを知っているのです。神の世界には、一切の悩みも苦しみもないということを知って私たちは生まれてくるのです。あの世で思うこと、考えることは、そのまま祈りの行為となって神仏と調和しているからです。そのことが潜在意識に記憶されているからです。ところが人間は肉体を持つと、こうした天上界、前世の記憶は生まれた瞬間にいっぺん消されることになって、いわば白紙の状態で生まれます。記憶していると、天上界、前世のことと現実のこととがごちゃ交ぜになって現実生活が混乱するからです。

 赤ちゃんは生まれると間もなく音が聞こえ、ものが見えるようになる。自分の外に「もの」があると知るようになる。そうしてそこへ親が「神仏はない」「霊はない」というような認識、即ち「もの」がすべてであるというような考えを持って接するから子供は次第に「神仏はない、霊はいない」と思うようになるのです。

 子供は小さい時は、人間とは心であり霊であるということを知っています。それは小さい子供が人間の絵を描く時に、頭からすぐ手足が出ている絵を描きます。大人はこういう絵を見て子供は間違っているといいます。
しかし、子供がこういう絵を描くのは、子供の心の中には肉体という認識がないからです。眼で見る、耳で聞く、口が動く・・・、だから顔という実感はある。手も動く、足で歩く、だから手足があるという実感はある。
 保育園や幼稚園でこういう絵を書いて持って帰ってきた時が、子供に対する教育の重大なチャンスです。もっともそれ以前から教えておかなければならないことですが、こういう絵を画いて持って帰ってきた時に「ばけものを画いてきた」と思わないで、「神がある」、「人間は霊である」、「天上界がある」、「人間は前世があり輪廻転生するのである」ということを教えてやることです。
 天上界や前世の記憶は生まれた瞬間に現在意識からは消えますが、潜在意識の中には薫習(くんじゅう)として残っているのですからすなおに「そうだ」と思って聞くことになるのです。
(薫習・・・香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、みずからの行為が、心に習慣となって残ること。)

 このことを思いますと、近代物質科学、唯物論が発達する十五世紀以前の人のことはよくわかりませんが、それ以後に生まれてきた人間は生まれた時から「神はない、霊はない、あらゆるものは物質だけである」という「しつけ」「教育」を受けて、そうでなければもっと幸せな人生を送れた人たちが、そういう間違った「しつけ」「教育」をうけてきたために、どんなに苦難の道を歩んできたかを思うとまことに残念でなりません。そういう間違った「しつけ」「教育」をしないで、正しい「しつけ」「教育」をしてもらいたいと思います。

 どんな小さな赤ちゃんでも潜在意識は目覚めているのですから、お乳を呑ませながら、あやしながら、「あなたは神の子です。すばらしい霊です。約束によって生まれてくれてありがとう」と、そういう意味の言葉を囁きかけるのです。

 私は五人の子供をみなそんなにして育てました。五人の子供はそれぞれに個性も能力も違いますが、子育てで苦労したということは全くありませんでした。むしろ子供が成長してゆくことが楽しみでした。そうして育てられた子供たちが、やがて正法を知って輝かしい時代をつくっていってくれることと思います。

 ところが人間は肉体を持つと、心ない親から「神はない、霊はない、ものだけがある、人間は肉体だ」ということを教えられ自我に生きようとします。近代唯物科学の発達は「人間の自我意識を増長拡大し、自我を主張することが正しいことだ」という思想を生み出しました。だから外国では交通事故をやると、絶対に自分が悪かったとは言いません。必ず相手が悪いと主張し合うのです。日本人はたとえ自分の方が正しくても「すみません」といいます。もし外国で日本式に「すみません」と言ったらそれこそ大変です。「それみろ、お前は自分が悪いから謝ったのだ」と言われて多額の弁償をさせられることになります。

 「すみません」といえる世界で唯一の国、それが日本です。同文同種といっても隣の中国でも「すみません」は通用しません。(同文同種 どうぶんどうしゅ・・・使用する文字が同一で、人種も同類であること。主として中国と日本の間についていう。) これまでの日本の外交の失敗は、日本が正しくて中国側に原因があったことでも、しかも総理が行って簡単に日本式に「すみません」といってしまったことです。一ぺん「すみません」といってしまうと、今度はかさにかかってきて「お前が悪かったからこうしろ」と、援助をせびり取られるということになるのです。

 近代物質文明、自我を主張することを正しいとしてきた西洋文明は没落します。肉体が人間であるという自我意識は神理、即ち神の心ではないからです。

 自分が正しい場合でも素直に「すみません」と言える唯一の国日本は、必ず神に守られることになります。「すみません」と言えるのは自我がないからです。自分は正しくても、自分が正しい行為をしたことで相手がいくらかの心の痛みを感じたら、その心の痛みを感じさせたことはすまなかったなあと、相手の心を思いやるところから「すみません」という言葉が出てくるわけです。

日米、日中、日韓等、日本と外国との関係は、自我を滅却して自我主張をしない日本と、極大に自我主張をする外国との関係ということになります。

日本人は「すみません」という一言で過去はすべて水に流すということをしますが、外国人に対しては「すみません」といってからが大問題だということになりますから、外国人に対しては徹底して論争することです。日本人は「すみません」で一切を水に流すということが身に沁みついているために、相手と論争し、相手を批判することを悪いことのように考えるくせがあります。この考えは改めなければいけません。相手の主張に対してこちらが黙ってしまえば、相手は自分の主張が正しいと認めたと思うのです。たとえいわれた人が心の中で黙殺していたにしろ、はっきりと口で文書で反論しない限りは相手は自分の主張が正しいと思い込むのですから、そうなったら自分が誤解されて損することになり、問題の正しい解決になりませんから主張すべきことはするという積極性を身につけないと国際人にはなれません。


 人間は肉体であると考えるところから一切の煩悩が生じます。肉体の自分を大事にすることが善だと考えると、人より多く食べたい、多く見たい、多く聞きたい、きれいに肉体を飾りたい等と五官の欲望にふり回され、その煩悩の欲望に自分が埋没してかえって苦しみをつくり出してしまいます。

 二十一世紀は、自我拡大、自我主張の西洋物質文明と、自我滅却の日本文明との争いということになります。外国には「奥床(おくゆか)しい」という言葉がありません。控え目にしていること、質素にしていることが偉大な証拠であるという考え方がありません。教養のない人は自己主張が強く派手に振る舞います。しかし教養のある奥床しい人は万事控え目です。奥床しいという言葉は、心の美しさ、心の偉大さを、目に見えない世界を思いやる心を持つところから生まれた言葉です。しかし、自我滅却がよいからといって黙っていたのでは相手に理解してもらえませんから、主張すべき時には主張することが必要です。


 私がユダヤフリーメーソンは警戒すべきだと言っているのはつぎの理由もあります。
 「人間は金持ちになって余裕ができると心に余裕ができる。心に余裕ができるといろいろなことを考えるようになる。考える人が増えてくると、我々が仕掛けた政策が間違いだということに気づくようになる。そうなっては困るから、我々はゴイ(ユダヤ民族以外の民族)に金を持たせないようにするのである。そのために我々は、ゴイに欲望を先取りさせて(家が欲しい、いい服が欲しい、旅をしたい)クレジットやローンを組ませるのである。欲望を先取りしたいと思う者はすぐそれに飛びつく。飛びついたが最後、クレジットやローンの支払いのために一生をすり減らせるということになり、金の奴隷になって高尚な考え方はできないようになる。そのようにして我々はゴイを墜落させるのである。」
 欲しいものはクレジットやローンで買わずに堅実に貯金をして、そうして買う方が経済的にも精神的にも得をするのである

 あなた方はこのフリーメーソンの考え方を見て「そうだ」と思われないであろうか。しかし物価、特に土地の値上がりを考えると早くローンで買っていた人が得したといえるが、しかし考え方の基本としては何でもかでもクレジットでローンでという欲望を優先させる考え方は、高尚な人間性を埋没させて金の奴隷となることになるから、やはり自分の霊、心を大事にする考え方、そういう生活をすることである。アメリカの場合はニセドル、ニセ小切手が多いから現金取引を嫌ってクレジットの方が銀行から振替えられる方が安心だという社会事情があるから、アメリカ人はカードをたくさん持っているほど信用度が高いということになっているが、日本はそういうことはないのであるし、特にまだ人間的に成熟していない、分別の足りない、欲望に走りがちな若い人がクレジットカードをたくさん持つということは危険である。

 煩悩に悩むという心だけの苦しみを持っている上に、更にクレジットやローンの金を返済しなければならないという金にまつわる苦しみが生じてきたら、心の安らかさは吹き飛んでしまうことになるから、やはり釈尊の教えにあるように「足ることを知る」ということは大事なことである。

 (以上のようなことを書きながら私はまた考えた。皆さんはいろいろな宗教書、仏教書を読まれて、ここに書いてあることは正しいと思うが、さてこれを日常生活に実践するということになるとどうすればよいのであろうかと、戸惑いを感じられたことはないであろうか。
 私が若い時に特に仏教書などを読んでそう感じたのですから、おそらく皆さんもそう感じていられることと思います。その点、私が書くことは、すぐ日常生活に応用できるようにやさしく解説してあるのですから、特にここに書いたような子育ての根本になることは今からすぐ実践してほしいと思います)

 

 


【 祈願文の解説-6 】

 

 「慈悲と愛の心を持って調和を目的とし 人々と互いに手を取り合って生きて行くことを誓合いました
しかるに地上界に生まれ出た私たちは 天上界での神との約束を忘れ 周囲の環境・教育・思想・習慣
そして五官に翻弄され 慈悲と愛の心を見失い今日まで過ごして参りました」


 我々の意識、魂は、神の意識です。高橋信次先生は「神の意識の当体」といわれました。
 なぜ我々は神を思うことが出来るのであるか。それは我々の意識・魂が神であるからです。

 今までの宗教は、人間を神とは離れた異質の存在だと認めて、そうして神の恵みを受けよう、神に縋(すが)ろうという信仰をさせてきました。
 自分自身を神と離れた別々の存在と見て、そうして神と一つになろうとすることは矛盾です。祈りは、人間が神から離れた存在であると気づいた時に(そういう時に悩み苦しみが起こるのである)神と一つになろう、神の意識に帰ろうと気づいた時に自然に起こってくる衝動なのですから、だから、神に祈りたいという心が起こってきたら、祈ることを恥ずかしいと思わないで素直に祈ることです。祈っているうちに心が安らかになってきます。
 正法を深く知るには、祈るという習慣を続けることです。

 調和の反対である憎しみ、争い、嫉妬、羨望、怨み等を、なぜ悪いと思うのかというと、それは我々の意識、魂が、調和が正しいということを知っているからです。

 例えばあなた方の顔に泥が付いたとします。するといやな気持ちがしてきて洗い落としたい、きれいにしたいという心が起こってくるでしょう。そういう心になるのは、顔はもともと泥が付いていないのが本当であるからです。私たちの本当の心、意識、魂は、調和が正しいということを知っているから、調和の反対である、憎しみ、争い、嫉妬、怨み等の心を持つと、「ああこれはいけないことだ」と思うことになるのです。

 その「調和」は、慈悲と愛の心でなければならないというのです。


 あの世で慈悲と愛による調和の大事さを学び、知った魂が、地上に肉体を持って生まれてきてその調和を実践し実現したいと思って生まれてきたのに、なぜ不調和な人生を送ることになるのか。それは「周囲の環境、教育、思想、習慣、そして五官に翻弄されるからである」というのです。

 「心行の解説」の中でも書きましたように、人間は「オギャー」と生まれて来て空気を肺いっぱい吸うと、その空気を吸ったとたんに前世とあの世の記憶は全部消される仕組みになっています。消されるといってもそれは現在意識の表面に浮かび上がってこないということで潜在意識の中にはちゃんとあるのです。その潜在意識に記憶されていることは、成長するにつれていろいろな体験をすることによって浮かび上がることになっています。

 「正法は実践である」というのは、実践することによって潜在意識の扉が開かれ、あの世の記憶を甦らせることが出来、神の意識に通ずることが出来るからです。

 実践のない知識、禅定瞑想では悟りは開けないのです。

 最近ある人を通じて入ったニュースでは、西ドイツで瞑想禅定が流行してノイローゼになる人が増えてきているということです。フランスでもそういうことがありました。それはある人がフランスで禅道場を開いたのですが、生活の実践は説かないので「無だ」「空だ」と、心をカラッポにする坐禅をやらせたからです。
 ノイローゼやいろいろな病気になるのを「禅病」と昔からいっていますが、修業途中で禅病になって死んだ若い僧たちがたくさんおります。このようなことになってくると、いよいよ私がヨーロッパに出掛けて行って指導をしなければならないようになってくるのではないかと思っていますが、とにかく、「オギャー」と生まれてきた時にいっぺん過去世のこと、あの世のことは現在意識で思い出せなくされてしまいます。いわゆる白紙の状態になるのです。生まれたばかりの赤ちゃんが、耳が聞こえ、眼が見えるようになって知るのは、生まれた所の環境と「物がある」ということです。そうして、いろいろしつけられ、教えられ、経験してゆきます。やはり一番長く親と一緒にいることによって親の言うこと、することによって子供は色づけされてゆきますから、親のしつけ、行動が大事だということになります。

 保育園、幼稚園、学校へ行くようになるとまたそこでいろいろなことを教えられ勉強します。その教えられ勉強したことが正しければよいのですが、間違ったことが教えられると、その子供の人生は大きく狂ってくることになります。ここに教育の大事さがあります。間違った教育がされ、その間違ったことを正しいと信じた子供たちが大きく人生を狂わせてゆくことを考えると、なんとしてでも正しい教育をすべきであると思わざるを得ないのです。

 家庭でも学校でも、正しいことが正しくしつけされ教育されていたら、そんなに苦しい廻り道の人生を送る必要もなく幸せに暮らせたはずの人たちが、間違ったしつけ教育をされたばかりに苦しみ悩みの人生を送ることを考えると、何とかしなければとじっとしてはいられない気持ちになってきます。

 どこかの坊さん達のように、また、いろんな教祖達のように、世の中のことは馬耳東風と少しも関心を持たずに、間違ったことを平気で説くというような真似はとても私にはできないことです。

 人間を一番大きく狂わせてきたのは「思想」です。

 主義とか思想、哲学は、人間が考えることのできる考え方の一部であって全部ではないということをよく知って下さい。ここにも釈尊が説かれた「全体と部分」の話をあてはめることが出来ます。
 ある角度から見た場合と、それとは違った角度から見た場合と、まるっきり正反対だという場合でも、それは見る人の角度による部分的な見方の違いであって、それは全体の一部でしかないので、もっと違った角度から見ればまた違った見方もできるわけです。

 例えば、人間を単なる肉体であり物体だと見る人は、肉体を楽しませることだけが幸福だと考えます。即ち五官の奴隷となっている人たちがいます。そういう人たちは死ねば灰になっておしまいであると考えます。
 心、精神だけを重視する人たちは、心を大事にするということで極端に精神主義的になって、五官の欲望を押さえようというので肉体行、難行苦行をするようになります。そのように、心、精神を大事にするという人でも人間は灰になっておしまいであると考えている人が多いようです。以上二つはともに唯物論です。

 一方に、人間は死んでも灰になるのではない、肉体は死んで灰になっても魂は死なない、永遠に存在すると考えている人たちもたくさんおります。

 二十世紀に生きる人間を一番大きく狂わせてきたのは、世の中のすべては「金」であるという思想を吹き込んだ資本主義思想と、世の中にあるものはすべて「物」だけであって、その「物」を公平に分配すれば人類は幸福になるという共産主義思想です。

 資本主義思想が初めて言い出されたのは今から約三百年前であり、共産主義思想が言い出されたのはわずか百四十年前である。資本主義思想は主としてイギリス、アメリカが、共産主義思想はソ連中共が実験をしてきて、既にアメリカもソ連中共も没落しつつあり、依然として武器生産をやめず軍備を拡張して、世界から戦争がなくならないことによって、以上二つの主義思想は失敗であることが証明されつつあります。

 世界の主導国家の指導者達が、主義思想による一方的な偏見を持ったことと、ユダヤフリーメーソンの陰謀により、人類は第一次、第二次世界大戦の悲惨さを経験しなければならなかったことは残念です。
 だからして今後の世界平和は、資本主義思想ではなく、共産主義思想でもなく、勿論ユダヤフリーメーソンの思想であってもいけないということがはっきりなってきたわけです。
 この二つの大きな思想とユダヤ政策によって人々の心は大いに混乱させられ、金のために平気で人を殺し、主義思想に反したといっては人殺しをする。そうして個人一人一人の心のあり方も混乱させられて多くの人が苦難の人生を歩んできております。

 あまつさえ、「人を救う」と言っている宗教家が金を目的にして間違った教えを平気で説いて、人を救ってやるという言葉の裏で人を苦しめてきています。
 多くの人々は大局的なものの見方、判断ができないために目先のことに振り回されて苦しみを重ねています。

 そこで高橋信次先生は、「資本主義も共産主義もともに唯物論である。唯物論によって人間は幸福になることは出来ない」と言われたのであります。

 こうして、人生のすべて、世界の歴史を達観された高橋信次先生の感慨がこの稿の冒頭の言葉となっているのであります。

 「しかるに地上界に生まれた私たちは、……、慈悲と愛の心を見失い今日まで過ごして参りました」
というこの言葉の中に、正法に依ればそのような苦しみを経験しなくてもよかったのに、片々(へんぺん)たる主義思想や五官に振り回されて苦しんでいる人類への深い深い悲しみの涙とともに、その奥にある高橋信次先生の慈悲の心を知ることが出来るのであります。

 このように考えてきますと、よくこそ高橋信次先生の教えにふれることができたことの有り難さをまた味わうことができるのであります。

 

 


【 祈願文の解説-7 】


 「いまこうして正法にふれ 過ち多き過去をふりかえると 自己保存 足ることを知らぬ欲望の愚かさに
胸がつまる思いです」

 「いまこうして正法にふれ、過ち多き過去をふりかえると…」とあるように、このことは何を意味するかといいますと、よく世間的に一般的に言われているような反省では真の反省になっていない。正法を知った上での反省でないと正しい反省とはならないのであります。

 多くの人は、謝りさえすればそれで罪は償われたと考えています。そうしてまた同じ過ちを犯してしまいます。そしてまた謝る。
 例えば、「腹を立ててはいけない」ということは誰でもが知っているし、今度はもう腹を立てまいと考える。毎回考えていてもそれでも腹を立てるのはやまない。それはなぜであるか。それは正法を知らないからである。

 正法を知ると人間は何のために生まれてきたのかという人生の目的がわかり、正法は神の心であり、正法に順うことが神に順うことであり、原因をつくるとそれはみな結果となって自分に返ってくるということがわかるので、自分が幸福になるためには進んで善いことをし、悪いことをしてはいけないし、その法を守ることによって魂が成長してゆくのであるということを知るからです。

 多くの人は、腹を立ててはいけないということはよく知っている。しかし、そうすることが魂が成長することであるということは余り考えない。考えないのはそのように教えられていないからです。

 高橋信次先生は「道徳によっては人は救われない」と説かれました。しかし多くの人は道徳的に立派であればそれを人格者だといい、そういう人は高い霊界へ行って救われると思っています。

 例えば「喜怒哀楽を色に表(あら)わさず」というのは儒教が教える道徳です。
「嬉しいこと、喜ぶべきことがあっても、腹が立っても、悲しいことがあっても、また、楽しいことがあっても、それを顔色に出してはならない」どんなことがあっても顔色一つ変えないようにならなければいけない。嬉しい、楽しいといってはワァーワァー飛び立って喜んだり、悲しいといっては顔に出してオイオイ泣いたりするようなことはしてはならないということです。
 昔の武士教育がそうであったし、吾々の子供の頃の教育もそうであった。もともとこの言葉は、相手の人の心を思いやるという憐憫(れんびん)の情から発したものである。 (憐憫・・・かわいそうに思うこと、あわれみ。)
 例えばボクシングの試合で勝った者がリング場で飛び上がって喜び、果ては肩車に乗せて喜ぶという行為は私は好きでない。なぜなら負けた相手の気持ちを考える時、そんなに躍り上がって喜ぶわけにはゆかないではないか。自分がうれしいからといって「うれしい、うれしい」といってはしゃいでいた時に、そこに悲しい思いをしている人があったら、その人を一層悲しませることにならないであろうか。自分が悲しいからといって、ワァーワァー泣いて歩いたら、それを見た人たちは不思議に思い、いやな気持ちにならないであろうか。終戦前は、喜怒哀楽を極端に顔や態度に表すと、それを「はしたない」「非常識だ」といって戒めたものですが、最近はそういうことがなくなりました。

 それでは絶対にそういうことをしてはならないのであろうか。昔の人は静かに喜び、静かに人知れず泣きました。怒る時でも静かに怒り諭(さと)しました。そうする人を「慎(つつ)み深い人だ」と尊敬しました。

 「喜怒哀楽を色に表(あらわ)さず」という言葉の奥にあるのが釈尊の「忍辱」の教えです。
 忍辱というと多くの場合、どんなに罵倒されても少しも怒らずににこにこ笑っていること、やわらかな心で受けることだけと解釈しているようですがそれだけではないので、嬉しい時、喜ぶべき時でも周囲の人々の気持ちを思いやって慎み深く喜ぶということをも教えてあるのであります。

 高橋信次先生が道徳では人は救われないといわれたのはどういうわけであるかといいますと、最近の人々の心は、嬉しい時、喜ぶべき時の心の中には人に対する優越感、自分を誇らしげに思う心の中に人に対する軽蔑、人を見下げた心のあること、怒る場合は怒りの心が、悲しい時には自分が悲しいだけでなく自分で自分をダメだと思って卑下する心、同時に人の幸福を羨ましがる心などがあるからです。そういう心を内に持ったままで表面上は何事もなかったような取り澄ました顔をしていたのでは、見た目には立派に見えても心の内にはいろいろな感情が埋もれているからです。

 釈尊が説かれた「忍辱」の心の奥にあるのは、人生の目的を知った調和にもとづいた相互扶助、人類はみな兄弟であるという平等互恵の心、正法という正しい環境の法を知った生活行為の心で、この心は釈尊以前からも説かれ続けてきた心です。

 こうして釈尊が説かれた正法の心がわかってきますと、喜んだこと、悲しい思いをしたことなども、今まで当たり前だと思ってきたことの中にも反省しなければならないものがあります。また、人がほめられた時、人が幸せになった時、なんとなくそうでない自分を自分で情けないと思い、その反動で「あの人が不幸になればよい」等と思われたことはないであろうか。
 そういう小さいことはさて置いても、親を悲しませたり、人と争ったり、これくらいはと思って盗んだり、自分本位の考えで相手と争ったり、「あれも欲しい、これも欲しい」「ああしてもらいたい、こうしてもらいたい」「思うようにしてくれない」等、いろいろな感情に翻弄されて心は苦しみをつくっているものです。そうした自分の心を反省してゆくと全く自分自身の愚かさに自分であいそがつきる位です。

 こうした自分自身に対するやるせない思いを親鸞上人は「小慈小悲もなき身にて、心は蛇蝎(だかつ)の如くなり」といわれ、パウロは「己のなさんとする思いはこれをなさず、かえってなさざらんとする思いこれをなすなり」と嘆かれました。

 正しい信仰をするには、まず過去の醜い自分に自分で愛想をつかすということが必要であり、大事なことです。
 そこまでは親鸞上人もパウロも正しかったのですが、それから先が違ったのです。親鸞上人は自分を反省された場合、こんな悪い自分を自分で救うことができるわけがないと思われたことから、限りなく尊い力のある方に救っていただく以外にないというので「阿弥陀如来」を立てて阿弥陀如来さまに救っていただくというので念仏を唱えることを説かれたのです。パウロも同じように、「キリストのみ名を唱えよ」と説かれたのであります。他力信仰はこのようにして生まれました。人間は長い間他力信仰によってしか救われないと信じて「南無阿弥陀仏」「アーメン」と唱えてきたのですが、高橋信次先生は、「他力では救われない、自力でないと救われない」と説かれました。

 

 他方から自力へ

 熱心に親鸞信仰をしている人達、敬虔なクリスチャン達は、人間を神の子であるというのは増長慢も甚だしい、悪いことをする自分が自分で自分を救えるわけがないといいます。
 ちょっと考えるとそのように思えますが、果たしてそうでしょうか。私たちはここで考えることをやめないで、もっと考え方を押し進める必要があります。他力信仰をしている人たちは思考停止をしているのです。

 人間が悪いことをした時に、悪いことはしてはいけないという心は何処から起こってくるのでしょうか。悪いことが悪いままでよいという人は一人もいない筈です。下手な絵を描いた人はもっと上手な絵を描きたいとは思わないでしょうか。試験に不合格であると今度は合格しようと思わないでしょうか。
 人間には確かに悪いことを思う心があります。しかし悪い心を持っているのをそのままでよいと思う人は一人もいない筈です。九十九%よい心を持っていても一%悪い心があれば、一%の悪い心位はよいさ、という人もいないでしょう。人間はどういう心になることを望んでいるのであろうか。それは百%きれいな心を持つことです。だったら悪いことを悪いままでよいと思わないで、少しづつでもよい心を持つようにすることが正しいのではないでしょうか。
 腹が立った時に腹を立たないようにするのは、自分がしなければならないので、念仏や題目をいくら唱えてみたところで、腹が立たなくなるということはないでしょう。自分の腹が立たないようにするのは自分自身でしかありません。試験に不合格だったら自分がもっと勉強することです。
 私の家から少し行った所に菅原道真公をお祀りしてある太宰府天満宮があります。受験期になると何万人という人が合格祈願に来られます。みんな目的の学校に合格できますようにと祈願するのですが、合格する人もあれば不合格の人もあるわけです。合格した人は試験問題が正しく解けた人で、解けなかった人は不合格です。ちょっと実験してみて下さい。なにも勉強をせずにいて、試験問題を机の上に広げて「この問題を解いて下さい」と一生懸命に祈っていてそれで解答が出てくるでしょうか。絶対に出て来ません。この世のことは自分でしなければなんにもできません。自分の心のこともそうです。

 釈尊は「まことに怨み心をもってしては怨み心を解くことはできない。怨みなき心をもってしてのみ怨み心を解くことができる」と説かれました。「阿含経」の中にある有名な言葉です。

 多くの人はこれを聞いて「なんだ当たり前のことではないか」といいます。そうです。当たり前であることが尊く有り難いのです。

 病気になって治ることも有り難いですが、それよりも有り難いのは病気にならないで健康であることです。事故にあって助かるよりも事故に遭わないことです。すべてのことがそのまま自然に有り難くなる。それがよいのです。

 戦争がなくなりますようにと平和祈願をしても、戦争を仕掛ける人があると戦争はなくなりません。大衆の与論によって歴史はつくられると唯物論者、社会・共産主義者はいいますが、それなら大衆が話し合って「これから戦争を始めようか」と討議して始まった戦争というものがあるでしょうか。戦争を計画した時に、黙っているというのは戦争をすることに同意した、賛成したということになります。そういうわけで世界平和実現のためには個々の大衆の善悪の発言が大事な影響力を持つことになるわけです。

 政治のことは政治家に、教育のことは学校の先生に委せてしまって、大衆はいわれたままに動いているという現在の社会のあり方も、元はといえば、信仰という大事な問題を、あなた委せの他力信仰としているというところから起こってきたものです。すべてのことを他人委せにしないで、それぞれ一人一人がしっかり考えるということにしないと改革も行われないのです。

 自分でしなければならないといっても、自己本位、自我我欲の自分であってはならないということはいうまでもありません。正法によって「人間は神の子」と知ったその神の子の自分であることを中心にしてものごとを考えることです。自分だけよければよい、人はどうなっても構わないという考え方が自己本位の心ですから、自己本位の心の中には、人は不幸になってもどうなっても構わないという心があります。そういう心を果たしてよい心ということができるでしょうか。

 「人間は神の子である」ということは、自分だけでなく、みんなも神の子だということです。自分がよいと思うことはみんなにもよいということにならなければならないし、みんなが悪いということは自分にも悪いことになります。人間はよいことをしたら誰も自分をほめてくれなくても、自分で自分をほめる心があります。反対に悪いことをすると自分で自分を責める心があります。よいことはよい、悪いことは悪いということを知っている本当の自分、その自分を「真我」と言います。この「真我」が自分であることを自覚させ、真我の命ずるままに生きることを教えるのが正しい信仰であって、人間を「罪の子」だとか「罪悪深重の凡夫」であるといって、人間だから悪いことをするのも仕方がないといって悪い自分を改めようとしないのは正しい信仰の道ではないことに注目する必要があります。だからして正しい信仰をする人たちは、親鸞上人やパウロの教えを超える必要があるのです。

如来といわれる釈尊の教えと、そうでない親鸞上人、パウロの教えとにははっきりとした違いがあることがわかられたと思います。


- 完 -

 

 

 

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ヘルメス

「ヘルメス思想」の謎

 

~ 神秘錬金術の秘密 ~

 

 


 

 

■■■第1章:ヘルメス・トリスメギストス

 

■■「三重に偉大なヘルメス」

 


ヘルメス・トリスメギストスとは、「三重に偉大なヘルメス」の意味であり、そしてヘルメスとは、いうまでもなくギリシア神話に登場する、オリンポス12神の一柱である。ギリシア神話では、ヘルメスは死者の魂の導き手として、生と死の境を自由に行き来できる使者であり、商業と学問の神であった。

また、エジプトの守護神トートと習合して、ヘルメス・トートとも呼ばれる。トートも同じく冥府の神であり書物の神であった。さらにヘルメスは、ローマ神話の神でトートと同じような役割を果たしていたメルクリウス(マーキュリー)とも同一視されている。

 

 


 

 


ギリシア神話に登場するヘルメス神。

錬金術の象徴である「ヘルメスの杖」を持つ。

(右は拡大写真)

 

このように、ヘルメス・トリスメギストスは、古代の3人の神として人類の前に登場しているのである。「三重に偉大な」とは、そうした意味をも含んでいるのである。

だが、秘教の伝承によれば、この「三重に偉大な」という表現には別の理由があり、ヘルメスは実際に存在した人間で、3回転生して活躍した偉大な賢者だったとされている。

はじめはアダムの孫として天文学の研究に携わり、ピラミッドを建造した賢者として生まれ、次はノアの大洪水後のバビロニアにおいて、自然科学・哲学・医学・数学の賢者で、ギリシアの哲学者ピタゴラスの師として生まれた。そして最後の生まれ変わりのときは、モーセと同じ時代のエジプトにおいて都市計画に携わり、化学・医学・哲学の賢者だったという。

また、ヘルメスは、生涯に3万6525冊の本を書いたとされ、宇宙の森羅万象を究めて、人類に医学・化学・哲学・法律・芸術・数学・占星術・音楽・魔術などのあらゆる知識をもたらしたといわれている。紀元後2世紀のアレクサンドリアの学者クレメンスは、その膨大な量の本のエッセンスは最終的に42冊の本にまとめられたとしているが、これらの書物は、一般に「ヘルメス文書」と総称されている。

ヘルメス文書という名称は、これらの文書が、主に導師ヘルメス・トリスメギストス、が、弟子に教えを授けるという形式で書かれていることに由来する。これらの文書のほとんどはギリシア語で書かれ、おおむね紀元前3世紀から紀元後3世紀に至る600年間に、エジプトで製作されたと考えられている。

もちろん、ここでいう「製作された」とは、あくまでも「写本の形で編纂された」という意味であり、その内容のすべてが、この600年の間に一から創りだされたという意味ではない。そこに盛り込まれた叡智がどれほどの過去にまで遡りうるものかは、いまだに判然としていないのである。

現在、一般にヘルメス文書の名で呼ばれているものとしては、『コルプス・ヘルメニクム』や『アスクレピオス』、『ポイマンドレース』などがあるが、その中でも精髄というべき最重要の書物こそ『エメラルド・タブレット』であるのだ。

 


■■錬金術の奥義書『エメラルド・タブレット』の行方

 


ヘルメスの死後、『エメラルド・タブレット』は彼の死体とともに埋葬されたが、その正確な場所は失われてしまう。そして、それから2000年を経て、このタブレットは再び歴史に姿を現した。なんと、ヘルメスの死体は、エジプトのギザの大ピラミッドの中に安置されており、タブレットはその手中にしっかり握られていたというのである。これを発見したのは、この地を征服したアレクサンドロス大王であったという。

とはいうものの、むろん、以上は単なる伝承であり、その信憑性を云々することはできなかった。タブレットの原文も失われ、長い間、この碑板の内容は、10世紀に製作されたアラビア語訳、およびそれに基づく12世紀のラテン語訳によって知られるのみだったのである。

そのため、この伝承のみならず、タブレットの内容自体が後世の創作だ、とまでいわれることもあった。たとえば17世紀の著名なオカルティスト、アタナシウス・キルヒャーまでもが、このタブレットは「ライムンドゥス・ルルス以前には存在しなかった」と述べ、暗にルルスの創作であることをほのめかしている。

だが、1828年、エジプトのテーベにおいて、紀元4世紀の魔術師の墓から大量のパピルス文書「ライデン・パピルス」が発掘され、驚くべきことに、この文書の中に、『エメラルド・タブレット』の最古の写しが含まれていたのである。

つまり、仮に先の伝承の全てが事実ではないにしても、そこには幾分かの真実の断片が含まれていること、そして何よりも、『エメラルド・タブレット』の起源自体が相当に古いものであることが確認されたのだ。

 


■■大ピラミッドを建造したのは「ヘルメス=エノク」だった!?

 

 


 

ヘルメスの死体は、エジプトのギザの大ピラミッドの中に安置されており、タブレットはその手中にしっかり握られていた──。これだけでも驚くべき話だが、�さらに驚くべきことに、そもそも大ピラミッドを築いたのはヘルメス本人だったという伝承も残されており、それを裏づける資料もある。

例えば、14世紀エジプトの歴史家アル・マクリージーの『群国誌』の一節である。

「最初のヘルメスは、預言者で王で賢人であるということから〈3つの顔を持つ者〉と呼ばれ、これはヘブライ人がエノクと呼ぶ人物で、またの名はイドリスである。彼は星を読んで洪水の到来を預言した。また、ピラミッドを建造させて、宝物や学問的な著作をはじめ、散逸しないように守っていた品々をことごとく隠して、保管をはかった」

なんと、大洪水の前にピラミッドを建造させたのが「最初のヘルメス」であり、この人物はまたエノクとも、イドリスとも呼ばれていたというのだ。この他にも、アラブ人歴史家アル・マキールイブン・バトゥータも、ヘルメスをエノクと呼んで紹介している。

 


 


旧約聖書』にも登場するエノクは、ノアの洪水以前に生きた超人種族の一員であり、あらゆる秘教の元締めとされている人物だ。生きながら天に昇ったというエピソードを持ち、彼が天使との会話に用いた言語「エノク語」は、至高の力と叡智をもたらす呪文ともなる。また、イドリスはアラブの伝承に登場する「太古の賢人」である。

そして驚くことに、アラブ人にとって、大ピラミッドが大洪水以前の建造物であることは、なかば常識であったといっても過言ではないようなのだ。

 


9世紀後半、アブ・バルキは、こう述べている。

「大洪水の直前、多くの賢人は天変地異を予言した。彼らは地上の生物や文明の叡智が失われることを憂慮し、エジプトの大地に石造りの塔を建設した」

アブ・バルキとほぼ同時代のアラブ人マウスティーは、著書『黄金の牧場と宝石の山』のなかで、大ピラミッドについて、もっと詳しく述べている。

「大洪水以前のエジプト王サウリドは、巨大なピラミッドを建設した。彼は、大洪水が起こる300年も前、大地がねじ曲がる夢を見たからだ。……ピラミッドには金銀財宝はもとより、数学や天文学をはじめとする科学の知識が詰められた」

ここでいうエジプト王「サウリド」とはイドリスと同一人物で、いうまでもなくヘルメスの別名である。混乱を防ぐため、ここで一応、整理しておこう。「ヘルメス=エノク=イドリス=サウリド」である──。

 


 


このほかにも、アラブ人の歴史家ワトワティ、マクリーミ、ソラール、アルディミスギらなど、一様に大ピラミッドを建設したのはエノク(=ヘルメス)であると著書に書き記している。

なかでも、最も有名なのは、歴史家にして旅行家のイブン・バトゥータである。14世紀、彼はアラブ世界のみならず、エジプトからアジア、なんと中国にまでやってきている。イブン・バトゥータが記した『旅行記』には、こうある。�「エノクが大ピラミッドを建設した目的は、大洪水から貴重な宝物と『知識の書』を守るためだった……」

この『知識の書』とは、『エメラルド・タブレット』のことを指している可能性が高い。

ところで、余談になるが、あの秘密結社フリーメーソンの一部には、『エメラルド・タブレット』は、彼らの伝説的な始祖ヒラム・アビフが製作したとの伝承が伝わっている。すなわち、ヒラム・アビフもまた、ヘルメスであったらしいのである。ヒラム・アビフはソロモン王の第一神殿を建立した石工の棟梁とされているが、フリーメーソン自体、大ピラミッドの建造に関わった古代の建築者/秘儀伝承者集団に起源を持つという。

 

 

 

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■■■第2章:錬金術の謎 ~人間の変成を目指す「神秘錬金術」~

 

 

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■■錬金術と「賢者の石」

 


西欧神秘主義において、ヘルメスは特別な存在である。とくに錬金術においては、まさに始祖ともいうべき存在である。そのため、「錬金術」は「ヘルメスの術」とも呼ばれている。

錬金術とヘルメス文書は、切っても切れない関係にある。あえていうなら、この両者は表裏一体であり、一方が欠ければ、もう一方も成立しない。すなわちヘルメス文書が「文字に記された叡智」であるならば、ヘルメスの術すなわち錬金術は、「文字に記されざる叡智」である。自らの手と肉体と精神を総動員して実践することによってのみ、初めて知解しうる叡智である。

一般に錬金術の目的とは、文字通り「黄金」を製造することにあったとされている。実際、14世紀のフランスで『象形寓意図の書』を著したニコラ・フラメルという著名な錬金術師は、1000回以上の錬金術の実験を重ねたのち、1382年に水銀をほぼ同量の金に変えることに成功したと言われている。

錬金術をこうした「無限の富を生み出す秘法」としてみれば、確かに人間の欲望を直接刺激するマジックとして映るだろう。

 


�なお、厳密に言えば、錬金術の“最終目標”は黄金を作ることではなく、「賢者の石」を手にすることであった。「賢者の石」とは、卑金属を金に変える究極の物質である。

「賢者の石」さえあれば、どんなものでも金にできると考えられてきた。その意味で、金よりも重要な物質といえる。錬金術師は「賢者の石」を「錬金薬(エリクシール)」と呼びならわしてきた。が、しかし、歴史上、誰ひとりとして、「賢者の石」を精製できた者はいない。それはそうである。卑金属を金に変える物質などありえないからだ。核変換でもしない限り、金以外の元素から金を作ることはできないのだ。

そう考えると、「錬金術など、化学的な知識のなかった時代の人々の幻想にすぎない。化学変化の実験によって、いろいろな化合物が見つかり、化学の発展に寄与はしたが、肝心の『賢者の石』を精製することはできなかった。結局、錬金術など、単なるオカルトのお遊びにしかすぎない──」という評価が幅をきかせることになる。

しかし、本当にそうであろうか? 錬金術は単なる世俗的な富を求める人々の道楽にすぎなかったのだろうか? 錬金術文献には、「われらの黄金は世俗の黄金にあらず」、「汝ら自身をして生ける〈賢者の石〉に変成せしめよ」などの言葉が散見される。どうやら、錬金術師のいう黄金を文字どおりの意味に解すると、道を誤ることになるとおぼしいのだ。

果たして、錬金術の真の目的は何だったのか?

 


■■錬金術を精神的な修行と解釈したユング

 

 


カール・グスタフユング

 

20世紀最高の知的巨人のひとりである、分析心理学の泰斗カール・グスタフユングは、中世・ルネサンス期に製作された、数多くの錬金術図像に着目した。錬金術の文献では、言葉では語りえぬ叡智を、一部の選ばれた者にのみ正しく伝えるため、一見したところではまったく意味のわからない象徴的な図像が多用されている。ところが、心理学者として多くの精神病患者と接していたユングは、彼らの夢の中に、錬金術図像に描かれたものと同一のイメージが、たくさん出現することに気づいたのである。すなわち、精神病患者の夢と錬金術は、共通の言語を持っていたのだ。

ユングはこの発見に基づいて、錬金術師たちは自らそれと知らないうちに、象徴言語を用いて自らの無意識を探究し、これを図像化する試みを行っていたと結論した。すなわち彼らの残した図像は、人間の無意識の領土の地図にほかならないのだ、と。

ユングによれば、錬金術師たちの行っていた黄金錬成(大いなる作業)とは、とりもなおさず、個々の錬金術師自身が、知らず知らずのうちに行っていた「個性化」と呼ばれる、精神的陶冶の作業過程である。そして、個性化によって得られる「黄金」とは、作業の結果として得られる完成された「精神」であり、洋の東西を問わず、神秘体験に共通して見られる意識の変容状態を意味しているという。

単なる詐術、あるいは無知と迷信から生まれた未熟な化学という、それまでの錬金術理解に比較して、この術を精神的な一種の「修行法」と見なすユングの研究は、まさに画期的なものであった。20世紀以降の包括的な錬金術理解への道程は、まさしく彼によってその第一歩を踏みだすことが可能になった、といっても過言ではないだろう。

 

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■■錬金術の作業が象徴する哲学的意味

 

 


エリファス・レヴィ

 

19世紀の神秘主義の大家エリファス・レヴィによれば「大いなる作業=錬金術とは、なによりもまず、人間の彼自身による創造、すなわち己れの能力および将来に対して行うあますごとなき征服」だという。

錬金術は全てのものに神=宇宙精神が内在すると教える。つまり、この大宇宙の根本原理は、無限の形態を通じて顕現するのだ。宇宙原理は私たちの物質的宇宙のあらゆるものに“種子”として潜んでいるのである。とすれば、術によってこの種子を育て、その本質的で完全な姿へと変容させることも十分に可能だ。卑金属に潜む種子に働きかけて、“哲学者の金”に育て上げることもできるはずなのである。

これがよく知られている錬金術の原理だ。だから、術の根本は、“大いなる作業”なのである。すなわち、文字通りの実験作業なのである。

「卑金属」とは、この世の様々な欲望と煩悩、正しい人間存在の発展を妨げるもの一切であった。「賢者の石」とは、神秘的変成によって姿を変えた人間であった。人間は錬金作業の素材そのものであり、鉛から黄金への変化は、人間が高次の理想に向かって意識を高めること、誰もが自分の内部に持っている祖型を実現させることであった。自然界の何ものにも冒されない「黄金」は、“完璧なるもの”“不死性”のシンボルであり、宇宙精神そのものを象徴していた。

このように、実際の物質的黄金ではなく、人間の精神の変成(純化)を目指した本来の錬金術を「神秘錬金術」と呼ぶ。

 


■■アラビアの最も偉大な錬金術師ゲベルの言葉

 


アラビアの最も偉大な錬金術師ゲベルによれば、真正の術者は化学についての正しい知識をもっているだけでなく、意志堅固で、根気強く、忍耐力に富み、温和で、敬虔で、誠実で、晴れやかな表情をたたえ、快活な心をもっていなくてはならないのだ。

「作業を行う者は自分の仕事と同じ高みに立たなければならない。すなわち、自分が物質に期待するのと同じ過程を、自分自身の内において実現しなければならない」

低次の金属を高次の黄金に変えていくという物質変容の過程は、獣性をもって生まれてきた人間が霊性に目覚めていく魂の精鍛・錬磨の過程と同一である。とすれば、錬金術を行おうとする者は、それだけの心構えを要求されるのは当然だ。

だから、ゲベルによれば、「権力や富に食欲な人間、うぬぼれの強い人間、優柔不断な人間、そして全ての心悪しき人間には、錬金術の秘密が明かされることは決してない」のである。

中世およびルネサンスの王侯貴族の中には、錬金術に傾倒した人々が多くいたが、彼らの工房は実験と祈りの場でもあったのだ。

 


■■東洋の錬金術

 


以上見てきたように、錬金術の真の目的は「人工の黄金」をつくりだすことではなかったといえよう。黄金を生み出す術というのは、錬金術のほんの側面を表しているにすぎず、その本質は、人間の精神と肉体の練成法を示したものであり、人間をより高次の存在にまで高めることを目的としていたといえるのだ。

事実、錬金術に用いられていた術語は比喩的な意味を持ち、神秘思想に精通した錬金術師たちが目指したのは物質的黄金の探求ではなく、魂の浄化であり、精神を徐々に変容させることにあったのである。

当然、このような「神秘錬金術」の思想は東洋にも古くから存在していた。

中国の錬金術師たちは、彼らの流儀の錬金術によって得られた錬金術的金「丹金」(西洋錬金術のいう「哲学者の金」)は、生命を無限に伸ばすと考えていた。錬金術の変成のプロセスによってつくられた黄金は、より高度な生命力をもっており、人はそれによって不死を達成することができると考えていた。

インドの錬金術はハタ・ヨーガの一部だが、その最高の達成を「殺された水銀」と呼ぶ。この賢者の石に比すべき物質も、水銀を黄金に変える力のほかに、さまざまな力をもっているとされた。たとえば、それを薬として飲むことによって、術者は中空を飛行することや、不可視になることができると考えられた。そして、若さを無限に延長すること、ついには“生きながら解放されたもの”になることも可能だと考えられた。つまり、超人化だ。

 

 


仙道書に書かれた修行法�(小周天と大周天)

 

■■真の錬金術は「自己」の完成を目指す技術である

 


中国でもインドでも、錬金術師たちは賢者の石や哲学者の金によって、自らを純化して神に近づくこと~人間の神性回復~を目指したのである。錬金術についての莫大な研究を残したユングの言葉を借りれば、錬金術師たちは「意識を変容して神のような状態になること、究極的な個体へと変わるための鍵」を賢者の石に求めたわけだ。

このように、錬金術の核心部分には“本質的なもの”への回帰を願う超人思想~意識変容の術があったと考えることができるのである。

優れた錬金術師たちが「真の目的は錬金術師自身の変質であり、より高い崇高な意識状態に達することである」といっているのは、まさにこのことなのである。

 

 

 


 

■■■第3章:「アーサー王伝説」に隠された錬金術の修行階梯

 


■■15世紀に集大成された騎士物語「アーサー王伝説

 


ヨーロッパにおける神秘学の精髄をもっとも端的に表した伝説といえば、「アーサー王伝説」をおいてほかにはない。そこに語られている数々の試練や聖杯、聖剣などのアイテムには、どれにも明確な意味が与えられ、心ある者がこの物語をひもとけば、知らず知らずに錬金術の奥義をマスターし、覚醒を遂げることができるのである。

そうした密義を満載したアーサー王の原伝承は、かなり古くから民衆の間に語り継がれていたと考えられるが、文学としてまとまるのはジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王記』に採録される13世紀頃までで、このときにほぼ現在のかたちとなり、15世紀トーマス・マロニーによって集大成された。

アーサー王とは、5~6世紀頃にイギリスに実在したとされる伝説の人物で、様々な部族国家を再統合し、サクソン族の侵入を阻止した英雄とされているが、物語はこうした史実に基づく王とは別に進行する。

そこに描かれる騎士物語は、ケルト神話、特にウェールズ地方の物語をべースに、キリスト教によって埋没させられた古代神の失われた面影、キリスト教神秘主義、魔術、奇跡、そして、人間社会と異界とをつなぐ妖精たちや魔怪、様々な錬金術の呪術を駆使する魔法使いらがふんだんに登場することで、ヨーロッパの闇の精神思想史の様相を呈している。

その中心的なテーマとなっているのが、中世に花開いた神秘学や神学、哲学などの重層的な意味づけだった。

 


■■「聖剣」と「聖杯」の融合が意味するもの

 


アーサー王物語の骨子は、王自身の受胎と誕生、結婚と、それを取り囲む円卓の騎士たちの様々な試練(修道の階梯)や、魔術師で予言者でもあるマーリンの秘儀を通じて最終的にたどり着くであろう至高の境地の獲得なのである。

その具体的な到達点が聖剣と聖杯(ケルトの大釜神話が原型)との融合である。すなわち「聖剣」は男性原理を表し、キリストの血を受け、最後の晩餐にも使われたとされる「聖杯」は子宮である女性原理を表している。

この融合により、錬金術の奥義「アルス・マグナ」に到達した騎士(修道者)は、この世のすべての束縛から解放され、心身ともに純化され、覚醒を遂げ、神と比肩する存在に昇華することで自己救済を完了させる。これこそが、黄金の生成(魂の覚醒)の持つ真の意味なのである。

 

 


「聖杯」は「アーサー王伝説」の中で、�騎士たちが探し求める聖遺物である。�「聖杯」はヨーロッパ精神史の隠れた�核であるといわれている。

 

ちなみに「アーサー王伝説」でこの聖杯の探究を成功させるのは、ガラハッドを頂点とするパルジファル、ボウルズの3人で、これはそのまま3つの悟りの階梯を表現している。物語では、真実の聖杯(真理を体得することで得た覚醒の境地)に到達したガラハッドの魂は、聖なるものを見つめたために激しく震え、目的を達した喜びのなかで昇天し、神に比肩する存在にまで昇華される。そして、後に残されたパルジファルは瞑想と信仰の隠者となり、ボウルズはアーサー王のもとへ帰還していくのだった。

アーサー王伝説」とはまさに、騎士物語に仮託して、錬金術の修道階梯を明らかにした教導書といえるだろう。

 

 

 


 

■■■第4章:ヘルメス思想の全体像

 


■■宇宙の創造(流出)と螺旋運動による回帰(進化)

 


ここで、簡単にヘルメス思想の全体像を紹介しておきたい。

ヘルメス思想においては、本来は霊的な存在であるはずの人間が物質界に下降し、そこで認識を得て再び神界に復帰する、という往還運動をとりわけ重視する。それはつまり、ヘルメス思想における進化とは、まっすぐでやみくもな直線運動ではなく、ときに後退とも見える運動を経ながら、より高次の存在をめざしていく螺旋運動にほかならないことを意味している。

ヘルメスの持ち物である「ヘルメスの杖(カドゥケウス)」にも、そのことは、はっきりと示されていよう。人間の霊的進化の経路を表象するあの杖には、中央の軸の周囲に、上昇と下降を示す2匹の螺旋状の蛇が示されている。これは錬金術の過程を象徴的に表したもので、進化はそのように行われるのである。

また、ヘルメスによれば、「目に見える世界が形づくられる前に、その雛型がつくられた。この雛型は『原型』と呼ばれ、創造の過程が始まるずっと以前に『最高の精神』の中にあった」のである。その原型を眺めているうちに、“最高の精神”はある考えに魅せられてしまった。そこで太古の空間に洞窟を掘り、“原型的な”鋳型の中に球の形をつくったのだ。そして、これが“宇宙”の始まりなのである。

わかりやすく言いかえれば、“神は天上界の原像をもとにして、その模造を地上の物資界に流出せしめた”ということだ。とすれば、この下降運動を、下位の物質を手がかりにして、再び天上的なものへと到達するための上昇運動に変成することも可能なはずである。『エメラルド・タブレット』によれば、“上なるものは下なるものに一致し、下なるものは上なるものに対応する”からだ。

その上昇運動の実現を目指すのが錬金術の究極の目的であり、その鍵を握るのが「賢者の石」なのである。つまり、錬金術の究極的に目指すものは“模造”であるこの世界を、人間存在そのものとともに“最高の精神”の高みにまで引き上げることなのだ。

 

 


螺旋状にからみ合う蛇は「ヘルメスの杖」の�シンボルであり、上昇と下降という�ヘルメス学の中心概念を表す。

 

■■創造主と被造物は本質的に同一物

 


ヘルメス思想においては、人間と神は本質的に同一なのであるから、そのことを「認識(グノーシス)」しさえすれば、人間を神のレベルにまで高めることができると説く。「神化、これこそがグノーシスを有する人々のための善き終極である」のだ。

逆にいえば、本来は神的な存在である人間が物資界に下降し、また再び神のレベルに上昇するという「運動」自体に計り知れない価値があるとし、これを評価する。すなわち下降や堕落に積極的な意義を見出す。これは正統キリスト教にはありえない思想である。

キリスト教においては、教義の絶対性を強調するため、神はあらゆるものに隔絶して存在する絶対者として規定されている。したがって神は、自分自身とは無関係なところで、絶対無から宇宙を創造し、人間は本質的に死すべきものであり、生まれながらに原罪を背負い、死後は裁きにあうと説く。キリスト教は、神(創造主)と宇宙(被造物)は全く別物であり、人間と神は全く乖離した存在であると主張しているのだ。

ヘルメス思想においては、創造主と被造物は本質的に同一物であり、同じ一者の異なる現れにすぎない。「全は一であり、一は全である」のだ。そして、下のものと上のもの、小宇宙と大宇宙が本質的に同一であり、互いに照応し合っていると考える。

大宇宙(外界)は小宇宙(人間)を包んでいる。だが、この大宇宙はまた、光の世界に包まれてもいる。光の世界とは霊の世界、すなわち人間の内的世界であって、ここに、内なる世界が外なる世界を包み込む、という入れ子構造が見られるのである。

 

 


ウロボロスの環。「宇宙」や「永遠」を意味し、�世界(宇宙)が終わりなき「円環運動」を�続けていることを象徴している。

 

 


以上、簡単にヘルメス思想の全体像を紹介してみたが、なかなか面白い「宇宙思想」であることが分かるだろう。実際、このヘルメス思想は古くから多くの知識人を魅了してきた。特に、このヘルメス思想がヨーロッパの知識人によって“再発見”され、キリスト教社会に多大な影響を与えた時代があった。いわゆる『ルネサンス』の時代である。

第4回アジア・太平洋水サミットにおける天皇陛下記念講演

令和4年4月23日(土)
熊本県熊本市熊本城ホール
人の心と水-信仰の中の水に触れる-
 記念講演に先立って、熊本県、九州地方、全国、そして世界各地で起こった様々な災害により、亡くなられた方々に対して、心から哀悼の意を表するとともに、被害に遭われた方々をお見舞いいたします。
議長、各国元首閣下、ご出席の皆様。

 

 

1.はじめに-熊本の人と水によせて-
 古来より、人と水とが深く関わってきた熊本市に於いて第4回アジア・太平洋水サミットの記念講演を行うことを嬉しく思います。熊本県は、近年、残念ながら度々水害による被害に見舞われていますが、もともと、山紫水明の地として知られてきました。
 阿蘇山金峰山などによるカルデラ地形に特徴づけられた熊本県では、『後撰和歌集』の「年ふれば わが黒髪も白河の みづはくむまで老いにけるかも(桧垣嫗)」の歌に詠まれた白川や、緑川、菊池川筑後川球磨川などが恵みの水を田畑にもたらすとともに、大地に染み込む豊富な地下水が人々の生活を支え、都市にとっての潤いと活力の源にもなっています。特に、熊本市周辺は、阿蘇山の噴火に伴う火砕流が降り積もってできた台地の上に立地しており、火砕流堆積物は水を透しやすいことなどから、降った雨が良質な地下水となり、人口74万の熊本市の全ての飲料水を賄っています。人口70万を超える都市において、このようなことを実現している例は世界でも稀です。多くの市民の皆さんが水環境の保全に取り組んでいるからこそのことであり、この熊本市は、まさに清らかな水の都といえましょう。
 熊本県をはじめとして、我が国では豊かな水が豊饒な大地を創り、先祖代々続く人々と水との関わりが、その地域固有の文化と社会を形成してきました。人々と水との関わりの歴史によって文化や社会が形作られてきたことは、日本のみならず、アジア太平洋地域をはじめとする世界各国の地域でも同様と考えられます。世界の文明、文化を眺めると、水は人々の生活を支えるだけでなく、人と自然の関係や、人々の自然観、世界観にも大きな影響を及ぼしてきました。日々の水への感謝や畏れが、やがては、水を心の清めや祈りの対象へと変化させ、水を通じた信仰へと繋がっていった事例も日本や世界各地で見られます。本日はそうした人の心と水との関わりを、水に関する民俗信仰という視点からお話していきたいと思います。


2.山岳信仰と水
 山岳信仰とは、日本の各地に広くみられる民俗信仰の一つの形態です。富士山や白山、大峰山や大山などの信仰が良く知られ、それらの山の神を祀る神社などが広く分布しています。山岳信仰は日本だけでなく世界にも見られ、特徴的な山岳や、山と関わりの深い民族の存在する地などで発達しています。アジアを例にとれば、中国のカイラス山は、仏教やヒンドゥー教の聖地とされ、多くの人々が巡礼に訪れていますし、私も訪れたことのある、ネパールヒマラヤのマチャプチャレやブータンヒマラヤのチョモラリも聖なる山と見なされています(図1)。

 

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 熊本県阿蘇山は、日本を代表する活火山として広く知られるとともに、山岳信仰の対象でもありました。そして、有名な中岳の噴火口(図2)

 

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は、火口の底に水を湛え、信仰の対象として、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が祀られています。健磐龍命には、阿蘇カルデラの湖水を切って美田を拓いたという言い伝えがあり、その子の速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は水分(みくまり)神として麓の阿蘇神社に祀られています(図3)。

 

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阿蘇地方には、このように古くから、阿蘇山の火山神への信仰と、阿蘇谷の開拓に伴う農業開拓神や水神との合体した信仰が存在したと言われています。
 この写真は熊本市内に多くある湧き水の写真です(図4)。

 

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熊本市では江津湖金峰山湧水群などの名水があり、県内には、白川水源など清らかな水が豊富に湧き出す名所もあります。阿蘇山への信仰のみならず、こうした名水もまた、多く信仰の対象になっており、小さな祠などが湧き水の傍らに置かれています(図5)。

 

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 次に、石川県、岐阜県福井県にまたがる、日本を代表する霊山である白山と水との関係を見ておきましょう(図6)。

 

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白山の標高は2700メートルを超え、手取川九頭竜川長良川という大きな河川の源流になっています。そのことも関係してか、白山は古代より「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神としても崇められてきました。そして、泰澄という僧侶によって白山が山岳信仰の場として開かれたのは奈良時代の717年と伝えられ、2017年には開山1300年祭が執り行われています。日本における山岳信仰には、水につながる伝説や信仰と結びついたものが多くあることがお分かり頂けるかと思います。
 さらに、水に関わる民俗信仰は山だけでなく、森や、林業といった人々の生業にもつながっていきます。これは滋賀県安曇川(あどがわ)流域に残るシコブチ神社ですが(図7)、

 

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この流域では、古くに林業が盛んで、伐採をした木材を筏に組み、川に流す際に多くの難所を越えなければならず、その安全を祈る「シコブチ神社」のネットワークが形成されたと言われています。このように、人々の様々な水への願い、感謝や想いが、水への民俗信仰へと広がっていったと言えましょう。


3.アジア・太平洋を繋ぐ水の信仰 -(1)蛇神(ナーガ)の旅-

 さて、少し視野を広げて、水の信仰を通じたアジア太平洋地域の繋がりについて見ていきたいと思います。その繋がりを探る手掛かりとして、まず蛇の神、次に龍神を取り上げます。
 こちらの写真をご覧ください(図8)。

 

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これは縄文時代の土器ですが、蛇の文様をかたどっており、古来より蛇が信仰の対象となっていたことが伺われます。実は、古代から蛇を神、或いは神の使いとして祀る例は日本だけでなく、アジア、欧州、南北アメリカ大陸、アフリカ、とほぼ世界中に広がっており(図9)

 

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また多くの場合、そうした蛇には大雨、日照り、雨乞い、虹や雲と言った水文や気象にまつわる神話や伝説、言い伝えが残されています。理由としては、蛇の形が蛇行する河川や虹・雷の形を連想させることや、蛇が水棲であったり水中にもいることなど諸説あります。いずれにせよ、ヒンドゥー教や仏教など国を超えた信仰が広まる以前に、それぞれの地域で蛇などを通じた水への信仰が素朴な形で生まれていたことは確かなようです。日本古代の『古事記』、『日本書紀』の神話に出てくる八岐大蛇もその一つの例と言って良いでしょう。
 アジア太平洋地域において、各地域で文明が興って以降、宗教の広まりとともに蛇にまつわる神話と偶像の移動も始まります。中でも仏教の伝播はアジア・太平洋において人々の心の中に大きな影響を及ぼしましたが(図10)

 

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水神である蛇の概念と偶像も大陸を跨ぐ移動を始めます。この写真(図11)

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ヒンドゥー教の蛇の神、ナーガ像で、猛毒を持つコブラがモデルとも言われます。ガンジス川での清めに重きを置くヒンドゥー教では、水にまつわる神々が重要な意味を持ち、半身半蛇のナーガ像が多くの寺社の彫像などに残されています。
 私は、2012年にカンボジアアンコール・ワット寺院を訪れましたが(図12)

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多くの場所でナーガの像や彫刻を目にしました(図13)

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中でも、寺院内の第一回廊の壁画レリーフには、ヒンドゥー教の世界創造神話である「乳海攪拌」が浮き彫りになっており、不死の薬を求めて、下の写真のように、中央の山に巻き付いたナーガの頭と尾を、正義と悪の神が、それぞれに両方から引っ張ることにより山を回し、海を攪拌している様子が描かれています(図14)。

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また、カンボジアの建国神話には、ナーガが、大地を覆っていた水を飲み干して土地を作ったという話もあり、ナーガと水との強い関係をうかがわせます。インドネシアの寺院にもナーガの像が見られます(図15)。

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 ここで、日本の例を見てみたいと思います。この写真をご覧ください(図16)。

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これは大阪・本山寺にある宇賀神像です。とぐろを巻く蛇の上に人間の頭部が載る宇賀神像は日本にも多く見られます。また、こちらは滋賀県にある、日本最大の湖である琵琶湖の竹生島にある弁財天像で(図17)

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その頭部にも宇賀神像が載っています。
 弁財天といえば、日本三景の一つである広島県厳島や、ヨットで有名な神奈川県の江ノ島などが有名ですが、いずれも島という水に関わる場所に祀られています(図18)。

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さらに、同じ島であっても、東京上野の不忍池には、江戸時代に、琵琶湖の竹生島に見立てて島が築かれ、弁財天を祀る弁天堂が建てられています。熊本県内にも弁財天を祀った島があると聞いています。また、山岳信仰の山としてよく知られた奈良県大峰山の弥山山頂には、天河弁財天の奥宮があります(図19)。

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大峰山は古くから紀伊平野を、さらに近年には大和平野も潤す豊富な水量を持つ吉野川の水源となっており、水と弁財天信仰との密接な関係がうかがえます。弁財天は、日本では、福徳の神である七福神の一柱に列せられ、「弁天様」として人々に親しまれていますが、インドで発したヒンドゥー教の水神であるサラスヴァティー神が原型となっており、仏教の伝播とともに日本に伝えられてきているようです。サラスヴァティーとは「水を持つもの」の意で、水神(弁財天)と頭の上に乗る蛇とが近い関係を持っていることが分かります(図17)。

 

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蛇を通じた水の信仰は大陸を旅し、海を越え、アジアの人々、そして日本の人々の心に大きな足跡を残しているのです。
 ところで、私は、昨年の9月に皇居に引っ越しましたが、現在の皇居は、江戸時代には徳川将軍家の居城があった場所で、その歴史について調べていくうちに、江戸時代の18世紀には、皇居内にある小さなお堀の島に弁財天が祀られていたことを示す記録があることを知り、驚くとともに、水とのご縁は続いていると感じました。

 

4.アジア・太平洋を繋ぐ水の信仰 -(2)龍神の旅-
 さて、それでは龍はどうでしょうか。伝説や想像上の生き物とされる龍ですが、中国では、その概念は仏教などの宗教が興る数千年前に既に形成されていたと言われます。これはその例を示したもので(図20)

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紀元前6千年以上前の仰韶文化(やんしゃおぶんか/ぎょうしょうぶんか)の「中華第一龍」や、紀元前3千年以上前の紅山文化(ほんしゃんぶんか/こうさんぶんか)の「碧玉龍」に、既に龍の姿が見られます。権威の象徴でもある中国の龍は水を司るとされ、古代から雨乞いの対象ともなっていました。中国にはインドに棲むコブラのような蛇はいませんので、古くからあるこの龍の概念が、伝来した仏教の蛇にまつわる教えと習合し、東アジア・東南アジアに伝わっていったともいわれています(図21)。

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 日本にも古代中国で形成された龍の概念が伝わったとされ、日本国内では多く水神として祀られています。奈良県の室生には、龍が棲むという洞穴があり、9世紀にはここで雨乞いが行われていたことが『日本紀略』という歴史書に見えています(図22)。

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また、鎌倉幕府三代将軍の源実朝が「時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」と詠んだように、特に干ばつ、大雨といった異常気象の際には、龍は祈りの対象となり、各地に水龍の伝承が残されています(図23)。

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龍の中には、「九頭龍」と呼ばれる、九つの頭を持つものもあります。先程ご紹介した白山や長野県の戸隠山は「九頭龍」信仰との関わりが深いといわれています。写真(図24)

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戸隠山ですが、ごつごつした岩肌が続くその特異な山容を龍に見立て、「九頭龍神」として崇拝したのが戸隠信仰の始まり、との説もうなずけるような気がします。
 ところで、熊本県八代市の「妙見祭(みょうけんさい)」の祭礼には、亀蛇(ガメ)と呼ばれる、亀と蛇が合体した中国伝来の架空の動物が登場します(図25)。

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ガメは、古来中国では龍の6番目の子どもを指したようですが、「妙見祭」が五穀豊穣を願う祭りであることを考えると、祭りという文化的な行事においても、龍と水、そして、日本とアジアとの結びつきを感じます。
 このように、日本をはじめアジアの各地で、水への感謝や畏れが蛇や龍という具体的な形をとった神話や偶像となり、さらに伝来した新たな教えとそれらが一体となって、少しずつ形を変えながらもアジア・太平洋の国々に広がっていった過程がお分かりいただけるかと思います。
 ここまで、人と水との日々のつながりから素朴な水への信仰が生まれ、そこから水へのより深い信仰となり、宗教の伝播に伴って広がっていった事例を見てきました。人々の水への想い、感謝や畏れは、蛇や龍の形を取り、大陸から海を渡り、各地域を繋ぐ文化の一部となったのです。時間と距離を超えた人と水との深い関わりは、アジア太平洋地域に住む私たちにとって、ゆるぎない共感と連帯の土台を形作っているように思えます。


5.水の国際共通目標の達成に向けて-おわりにかえて-
 15年前、大分県別府市で開催された第1回アジア・太平洋水サミットの記念講演で、私は、かつてネパールの山間部の共同水道で水をくむ女性や子供たちの姿を見たことが、水問題に関心を持つきっかけとなったことをご紹介しました(図26)。

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蛇口をひねればすぐ飲める水もあれば、何時間もかけて並び、山道を運んでようやく手に入る水もあるのです。そしてその風景からは、人と水との関わりの中のジェンダー、健康、教育など、「誰一人取り残さない」持続可能な開発目標(SDGs)の達成に向けた課題も映し出されてきます。
 2015年に合意された国連2030年アジェンダは、このような課題に対して、アジア太平洋地域を含む国際社会に共通の目標を提示しました。目標年まで3分の1余の期間が経過した現在、その進捗の遅れに関係各国連機関が警鐘を鳴らしています。世界の全ての人々が安全な水と基本的な衛生サービスにアクセスするためには、今のペースのそれぞれ2倍の速度で施設の整備とサービスの拡充を進めなければなりません。さらに、2030年までに世界の全ての人々が各家での水道水や安全に処理される個別トイレといった水衛生サービスにアクセスするためには、今までの4倍の速度で施設の整備が図られる必要があると言われます。
 一方で、洪水や干ばつなど、水に関わる災害が頻発しており、気候変動の激化に伴って災害状況のさらなる悪化が懸念されているのも事実です。熊本県でも、水害からの復興が進んでいるところですが、さらに取り組みを継続して推し進める必要があるでしょうし、今後の対策も急務と考えられます。水の不足や過剰によって起きる様々な問題は、人々や社会に不安や緊張をもたらします。人と水との関係をめぐる問題は、私たちが連帯して取り組まねばならない喫緊の課題となっています。
 全ての人々が、豊かな水の恩恵を受けて安心して日々の暮らしを営むことが可能となり、それがやがてアジア太平洋地域、さらには全世界の平和と繁栄につながっていくことを心から願います。アジア太平洋地域を含め、世界各国で水を通じた地域の協力と安定に取り組んでいる方々に心からの敬意を表します。
 本日多くの例でご紹介したように、水は人々の生活を支えながら、人々の心に安らぎを与え、地域と地域を超えた共感と連帯をもたらします。この会議を通じて、出席される全ての皆さんが、人と水との関わりを様々な角度から話し合い、水をめぐる課題とその解決に向けた具体的な方向性を見出し、水に関する国際社会共通の目標達成に向けた決意を新たに行動していかれることを期待しています。そして、私も水問題についての理解とその解決に向けての考察を深めていくことができればと思っています。
 有難うございました。