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煉丹の玄道

『煉金術雑感』

馬十八頭に積ませてもなほ余ると云はれてゐる道蔵(仙道の教典)には、まともな漢文で書かれたものは滅多になく

 


どの道蔵にも隠語と比輸が到る処に使用され、修行もしないで借物の頭脳智だけでこれが解説や論評を試みたりする俗家学者の眼をくらますやうに作文されてあるから

一冊の道蔵を完全に読解するためには、煉丹の玄道を適進しつつ、既に玄胎を得て、これを温養しつつある先駆行者か、或は既に神智圏(法界)に意識を常住せしめて色身を完全に脱落してる

る真人に就従して、これらの先人から隠語や比輸の解きほぐしを受けなければ真義が楓み取れぬやうになつてゐる。

 


それで大陸では古くから先行にもつかず、仙技仙法の一つも修しないで

ただ漢文の文字通りに道蔵を解釈して、解説本など出して、顰蹙(ひんしゅく)どころか、笑ひ草の種にされて

ゐる例が少なくない。

 


これらの人々は概ね歴朝の科挙の試験(本邦で終戦時まで行はれてるた高文試験)に合格しようと諸子百家を勉強した学者たちである。

 


我が国では支那哲学科の設けられて

ある大学の博士教授連中が、これと同じ誤謬を冒し笑ひ草の種をまいてゐるが、中でも噴飯に耐へないのは『錬金術』に係る解説書であろう

 


仙家の秘法と誤称されて古くから伝はつてゐる「煉金術」とは簡単に云へば、鉛を溶かし、丹砂(不老不死の仙薬と称せられてゐる水銀と硫黄の化合物)を以てとれを煉つて黄金に変へると

いふもので、黄金といふものがこの世で最も貴重な鉱物として通貨の最高位に置かれたことは洋の東西を問はず

昔も今も同じであり、古代支那人の間ではこれを粉末にして服すれば不死の神仙に化すると考へたもので、時代が下るにつれ、物欲が盛んになつてくると

 


神仙などにはならなくてもいいから、黄金を自製することができたら大金持になれて、栄耀栄華は意のままだと考へた俗物たちが、いのちがけでこの「煉金術」なるものに取組み、漢の王族の一人はそのために

差大な領土まで失ってしまったと伝へられてゐる。

 


ところでほんものの煉金術は「煉金丹法」であり、仙家の秘法であつて口訣に属し、本格行の煉金丹道に入つた者だけに、師匠や先行によつて伝法されるものであるが、仙道連の同修は均しく丹士から真人への玄道を目指してゐる一路専修の行者なので、ここに煉金丹の玄義を書き残しておく次第である。

 


鉛を丹砂で煉つて黄金に変へるといふ文句は比喩であって

 


✨鉛とは識神のこと✨

 


✨丹砂とは(精気神)のこと✨

 


✨黄金とは元神のことである。✨

 


ところで煉金術に係はる道蔵を文字通りに読むと、昔はほんとに鉛を黄金に変へる方技があったたかの加く錯覚し

 


そしてそれをそのまま英語や日本語で一冊の本にまとめて出版してある阿保学者が欧米にも日本にもゐる。

 


つひ最近にも、この種の「煉金術」を文字通りに訳出して、仙道の紹介書を刊行した人がゐて「自分は現代に於ける大陸仙道の数少ない紹介者だ」

と己惚れ、そしてまたその人の著書を読んで煉金術なるものをもつと詳しく知りたいから紹介してくれと

 


本連に問合はせて来た欲張りも現れた。

 


大陸仙峰の修行道観に籠り、来る日も来る日も重労働の作務(水汲ロバの代役)に従事せしめられて

忘行(在俗時の頭脳智を無にする入山最初の行)に半歳も一年も耐へてこそ

 


仙道の本格行たる結丹や玄胎の温養などといふ玄法が理解できるので、その経過が「鉛を丹砂で煉つて黄

金に化する」と云ふ言葉で形容されてるることがわかるのである

 


修仙の課程(漸門五階の仙技仙法)を躬行せず、明師先行にも就かず、忘行の作務もしたことがなく

 


ただ机の上で道蔵を読んだだけでは、如何なる大漢学者と雖ども自己流の誤解を生ずるだけで

 


そのうへ誤解に基づいて訳書でも出版したら、現世は勿論、後世までも物笑ひの種にされるだけである。

 


冒頭にも述べた通り、道蔵には比喩や隠語が到る処に出て来るだけでなく、道観だけの不出世の秘録には、斜め読みしたり

 


行飛びして読まなければ意味の通じない書き方に依つたものもあるので、これらの秘録は大陸道観に参じ、先行から読みほどいて貰はないと解りやうはないのである。

 


それを僅かばかり漢籍が読めるからと云つて、道蔵を普通の書籍を読むやうなつもりで文字通りに読んだら煉金術の場合のやうな飛んでもない誤解を生じ、それをそのまま日本語などに訳出したら、全くの笑ひ話となるのが「落ち」である。

 


仙道は逸仙(何かの都合で仙界から地上へ落とされ、しばらく仙界へ帰れないでゐる人)でも

ないかぎり、師家、或は先行に就かねば本格行たる煉丹の玄道へは進めない。

 


この世にあつて金丹を煉り上げる(意識を神智圏に常住せしめる)ことほどむづかしく、且つまた意義ある生き方はないのである。

 


それは真人不死の法身に再生できることだからである。それ故、一度意識を神

智圏に移し得た以上、これを人智圏へ引戻すやうな愚を冒してはならない

若し本格行へ進み得た行者がさういふことをしたら邪霊に悪依され人格が成り立たなくなる。

 


かういふ場合があるので仙道では丹士の卵たちに対しては集団の坐忘行を行修せしめるのである

つまり魔境に堕ち易いのは独坐の場合が多いからである。それで本連でも本格行に入つたばかりの人には独坐の坐忘行を禁じて会所や、道観での合坐方法をとるやうにしてゐる。

 


さて仙道の本格行に「元化」といふ言葉がある。これは行者が本物の自分、詰り宇宙元神に見参できて、これと一体化することを云ふので、要するに意識が神智圏(宇宙意識界)に入つたこ

とである。

個我意識といふものはもともと宇宙意識から分派せしめられたもの、それが陰腸(父母)の合徳によって現象したものであるから、無限数の祖霊の業が尽きれば

元の宇宙意識に復帰するのは当然のことである。

 


しかし普通の個我意識はそんなことは全く知らず、長い年月のうちに己れの

大親である宇宙意識など認めなくなり、我執と偏見の修羅界に堕ちて争闘の鬼畜と化する段階まで堕ちてしまつてゐる。

 


人類五千年の歴史は実に争闘の歴史、血の歴史である。一日として安心立命の日は誰も持ち得られない。ただ己れの本来性を求めて、己身に金丹を結び、これを煉り上げた人のみが、個我意識を宇宙意識に合体せしめ

 


永劫の法界に心を住せしめて安心立命するの

である。これを金華が開いたと云ひ、煉金術の本義である。

 


『煉丹の玄道』より♪f:id:sanmeifuku:20200814145326j:image