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高橋信次 書籍より

南無阿弥陀仏とは』 (人間釈迦・第3部161ページより)

 

バラモン教については、これまで詳しく記述して来たが、そのもとをたどると、今から一万年前、アガシャー大王の太陽を神とする信仰が今のエジプト地域を中心として起こり、その後、アモンが出て、再びこれを継承し、つづいてクレオ・パローターにつがれ、アポロンに伝わり、西パキスタンを経て、インドに定着したものである。

 

アミダの由来はどのようにして起こったか。アミダの語源は、アモン、アーメン、アミーというようにその信仰が各地域に広宣流布されるにしたがって、その発音が逐次変わってきて、インドに来たときにはアミダになっていた。

 

アモンとは人の名を指しているが、その意味するところはもともと、王とか、神とか、太陽、宇宙神をいい、このため、神を具現した者をアモンと呼んだのである。ちょうど、ゴーダマ・シッタルダをブッタ、あるいはプッタと呼んだのと同じ意味合いである。ブッタとは仏であり、仏とは神の心を具現した人をいうのである。

 

南無阿弥陀仏阿弥陀如来)は、古代インド語ではナーモアミーブッターという。ナーモは南無をいい、これは神に帰依する、帰命すると解釈し、アミーは阿弥陀で、アーモンは今から四千数百年前、アフリカで道を説いた偉大な、光の大指導霊である。ブッターは仏であり、文字通り悟った人ブッタを指す。古代インド語ではダボーという。これを直訳すると、神仏に帰依する、帰命するということだ。

 

阿弥陀如来となると、これは前述のようにアーモンを指し、アーモンはその後イスラエルに転生したイエス・キリストのことである。

 

阿弥陀信仰にはきまって西方浄土が出てくる。西方浄土とはインドからみると西の方角、つまり、アーリア人が西から東に移住してインドに定着し、アモンの神のメッカであるエジプトやイスラエル方面を指していたのである。中国から日本に阿弥陀信仰が伝わると、西方浄土の方角を見失い、西方浄土とはあの世の天国を指すようになったが、実際はそれでもいいわけである。

 

同じことは唐天竺についてもいえる。仏教がインドから中国に伝わると、仏の在所は天竺という雲の上の極楽を指すようになった。インドに行くには世界の屋根といわれるヒマラヤ山脈がつらなり、容易にインドに渡ることは出来ない。このため、時とともに唐天竺は雲の上にあると人びとの想像が発展していった。このように仏教にしろ、バラモン教にしても、そのモトは一つであり、その根本の教義は、自然(神)の意志が具現(慈悲、愛)することにあったわけである。それがいつのまにか、形式化されて、やがて、カースト制度を生むことになる。

 すなわち、リグ・ヴェーダーがインドに定着すると、神官であるバラモン勢力が権勢を占めるに至り、神官、武士、庶民、奴隷の四階級のきびしい階級制度をつくっていったことは、既述した通りである。

 

これまでの人類の歴史をみて来ると、偉大な聖者が現れたときは人びとの心も統一され調和に満ちた社会の出現となるが、その光が昇天してしまうと、次第に修羅の巷と化し混乱してしまう。人類は、いわば末法と正法のくりかえしのような観を呈している。これはいったいなぜなのだろう。なぜ人類社会はいつになっても救われないのであろうと誰しも疑問をいだく。

 

その理由の一つとして、人間のカルマが挙げられる。カルマとは業であり、ものに執着する想念と行為による悪循環をいう。このカルマが転生の過程において修正されなければならないのだが、しかし根本的に是正されないかぎり、カルマは輪廻するので個人的、社会的混乱の渦紋はなかなか消え去らないということになる。

 

もともとカルマというものは、縁にふれ、現れることによって、初めて人はそれに気づき、現れなければ理解も出来ないし、修正も不可能となる。その現れの形が大きく発展すると末法となり、社会が混乱することになるのである。

 

さらにカルマをカルマとして認めず、見過ごしてしまうと、新たなカルマをつくって混乱にいっそうの輪をかけることも起きて来る。

 

こうして末法と正法の時代は歴史的に繰り返しの過程の中にあるようであるが、しかし、過去世のカルマがそのままストレートに現れることはない。そのまま現れるとすれば人類はとうの昔に滅びていなければならないし、そういうことはないのである。私たちは現象界と実在界を絶えず往ったり来たりの輪廻をくりかえすが、現象界のカルマは実在界である程度修正され、再びこの地上に生まれ出てくるので、残されたカルマをいかに上手に修正するかが、私たちの課題であり、上手に修正される時代を正法といい、盲目に陥った時代を末法というのである。

 

末法はこのように心不在の時代を指すが、混乱のもう一つの理由として、人口の増加があげられよう。百年前と今日では四倍近くも人口が増えている。千年前と今日ではこれまたその数は比較出来ないほど増えていよう。同様にしてこれから五十年後、百年後の人口は、増えることはあっても減ることはないであろう。争いの火種はその大半が思想や生活権の問題であり、そうしてこれは人口問題とは不可分な関係にあるといえよう。限られた領土と食糧、人口が増えれば増えた分だけ、食糧増産しなければならない。衣服や住居も増やさなければならない。利害が反すれば争いはさけられない。利害とは直接的には生活権であり、生活権の歯車は思想であり、政治である。したがってこれらが融合し、解決しないと争いはつきないことになって来る。

 

正法がこれらの問題に、非常に関係を持つ理由もここにあるわけだが、しかし、こうした問題は時を追って是正されてゆくであろう。とくに、経済問題は人間の目的というより、その目的を果たすための手段であるので、人びとの心がめざめて来れば自ずと解決されるものであるからだ。

 

しかし経済問題とからんで、人口増加の根底にある問題がまだある。それは魂の過程が人によって異なっており、地上に人口が増えているということは、異なった魂が地上の両親を縁にして新たに誕生していることを意味する。

 

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