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古事記の冒頭に『あめつちの初めの時に高天原になりませる神の御名は天之御中主神』とある。
高天原とは大宇宙のことで、「なりませる」の「なる」は鳴るであり、生るであって、波動のことである。
宇宙の真中で波動が生じたのが天地の始まりで、これが一切万有の中心であるといふのである。
宇宙の真中が鳴り響いた、波動を生じたといふのは「ことば」が生じたといふことで
この言葉を我々の先祖は霊感して「天之御中主神」と尊称したのである。
仙道ではこれを「道」と云ひ、無名或は常無といふ言葉で説かれてある。
つづいて古事記には
『次になりませる神の御名 タカミムスビノ神、次になりませる神の御名はカミムスビノ神』と述べてある 。
タカミムスビとは高身に現れるといふ意味で
高身は高く上るもの、火であり陽であり縦であり時間であって
次の波動は陽に現れたといふのである。
カミムスビとは下ひろがりのもの、水であり陰であり横であり空間であって
その次の波動は陰に結ばれたといふのである。
タカミムスビとカミムスビとは陰陽、水火、縦横、相対の産霊であって
時間と空間の制約を意味し、ここから八百萬の神(万有)が生じたことになるのである。
我々の先祖は直観と霊感により万有創成の原理を知り、一切は「ことば」で成った生命であると観じ
一切を神或は命(みこと)と呼んで、糞小便の端に至るまで神呼ばはりしてゐる。
この万有創成の本源は宇宙の中心から鳴り増した波動(ことば)である、生命(みこと)である
といふ認識に就ては、我国の古事記ばかりでなく、支那、印度、猶太等古代文化を持つ民族にはそれぞれに同じやうな宣言がなされてゐる。
支那の五行哲学では『太極、両儀を生じ陰陽と
なる』
と述べられ、印度の古典では梵天が音声を出したから万象が発現したと云ってあり
キリスト教のヨハネ伝第1章には、このことが一層明確に説かれてある。
それは『太初にことばありき
ことばは神と共に在り
ことばは神なりき。
造られたるもの一つとしてこれに由らで造られざるはなし』
といふのである。ことばが造化神そのものであり
そして万有発生の本源であると宣言されてゐる所は古事記と同様である。
また支那の「陰陽五行説」も太極といふ中心が先づ波動を起こして陰陽といふ両儀(相対)を生じ
これが万有に現れると説き、一切万象は太極(大宇宙の中心)の自己顕現で、太極といふものが万象の外に独り立ちしてゐるのではなく、万象即太極、太極即万象だといふのであって
宇宙生命即万有
万有即宇宙生命
といふ古事記やバイブルの宣言と同じである。
仏典ではこれについて『色即是空·空即是色』と説き、
色あるもの形あるもの元これ空(無色無形)、
この空無なるものが動いて有色有形に化現したと云ってある。
波動やことばといふ文字
こそ使ってないが、空無そのままでは形色に化現するはずはないから、やはり波動を生じて形色を現したのだと解釈すべきである。
また『有情非情同時成道·山川草木国土悉皆成仏」とも説かれてある。
有機物も無機物も、
ありとあらゆるもの、
山川も草木も国土
も皆悉く仏の化生だ
仏が内在して正法を説かれてゐる相(すがた)だと云ってある。
「正法を説く」とは波動つまり言霊のさきはへの意味である。
仏と云ひ、道と唱へ、天之御中主神と呼び、太極と称するも悉くこれ波動(ことば)である。
現代物理化学は万有の根源を究めようとして、
物質の中心帰一状態を崩壊せしめ
陰陽の電子を見つけたが、この電子の発生母体を仮りにエーテル(精)と呼んで
エーテルの探究に砕心したところ、遂にこれは如何なる測定器を用ひても人間の五官に感覚されない一種のエネルギー(力)でこのエネルギーの波動がその頂点に陰陽の電気を結び
この二つが一定の法則の下に結合して原子となり、気体、液体、固体となって万有が化成してゐることを発見したのである。
そしてこのエーテルといふ存在は1分1厘の隙もなく続いてゐる連続体であって、
と表現する他に全く表現のしゃうがなく、
てゐる生命体だとも説明してゐる。
それは『一』と表現する他に全く表現しやうがなく
しかもそれは静止の壮態では「無」で、不断に活動している生命体だとも説明している。
ところで我々の地球にあって気体は地表から五里(二十キロ)のところまでしかなく、それから先はこの静止の状態では無であると云はれるエーテル圏であるが、地球はこのエーテル圏の中でおよそ一億五千万キロの半径を描きながら
一年に三百六十五日といふ速度で太陽の周囲を廻ってゐる。
この速度がまた感覚のできない早い速度であるにも拘らず我々は地上から振落さ
れることもなく、それどころか何らの抵抗も感じない。それ程このエーテルといふものは無抵抗なものであるが
さうかと思ふと一億五千万キロといふ距離を与へで地球を太陽にひっつかせも
しなければ、離すこともしない斥力と引力といふ偉大な抵抗力をもってをり
抵抗力があるやうな
ないやうな、無いやうであるやうな
人間の大脳智ではただ妙々不可思議としか表現のしようのない存在である。
この空無なエーテルが地表を離れる五里向ふで、時々刻々波動を生じ、陰陽
での電子を結び
それが一定の法則で化合して万有が生々化々されてゐる。
このことを古事記では
時々刻々1分1秒の休みもなく天之御中主神(エーテル体)が鳴り増して(波動を生じて)
高身産霊神(陽子)と下身産霊神(陰電子)に表れ、その化合によって八百万神(万有)が生まれてゐると表現してゐる。
我々は天地(あめつち)の創成を何億万年の彼方に尋ねる必要はない。
いま我々は天地創成の声を地表の五里向ふに聴いてゐる。
始めもなく終りもなく、あるものは今の1点で、創成は無限から無限へ続いてゐる。
北畠親房は神皇正統記の冒頭でこのことを『あめつちの始めは今を始めとする理(ことわり)なり』と述べてゐる。
物理化学は分析の結論として、宗教や哲学が直観と推理によって把握した宇宙の実体、万有の根源をその通りに解明してくれた。
すぐれた科学者たちはみなこの原理を知ってゐる。
ただ科学にも徹底できない生半可通のかぶれ屋共が無神を云ひ、迷信と断じて宗教を否定するが、それは
自分の知識の浅薄さと思考の不徹底さを人前に暴露してゐるだけで、憐れと云ふほかない。
宇宙の実体、万有の中心はまことに「一」なる生命であり、生命は波動であり、言葉であり
一切万有は一言霊の幸栄えである。この言葉の霊を我々の先祖はミコトと呼んだ。
ミコトは御言であり命である。
一切万有はミコトより発し、そして一切はミコトであり、一切個々の帰一する中心は一切個々と一つなるオホミコト、即ち宇宙の元神、天之御中主神である。
このオホミコトに帰一して、その法のまにまに生活を行ふ者は中心帰一の道を行ずるものであって、不滅の生命(法身)を生き通す真人である。
以上のことは頭脳智で誰にでもわかることであるが、 さて実行となると知っただけでは仲々容易ではない。
この中心帰一が日常の茶飯事として行じられるためには体得することが必要である。
体得には行によって腹脳智(自律神経叢)を開発し、腹脳がとりも直さず宇宙の元(生命)そのものであるといふ自覚に到達しなければならない。
知得と体得とは意味が違ふのである。知得は頭脳智の思考だけでいいが、体得は腹脳智によるものだから
常に老子経八十一章五千言を心読しつつ、漸門五階の仙技仙法を行じなければならない。
さうすれば今もこれから先も不断につづく宇宙創成(万有開発)の原理が、仙道の「同玄」といふことであることがわかるであらう。
同玄は坐忘であり、仙道が坐忘行を畢竟とする所以である。
『煉丹の玄道』より
わかりづらい文章に心を寄せてくださり
お目を通してくださりありがとうございました😊
今朝の彩雲です\(//∇//)\
みなさんへの
祝福
です✨